sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

Pinoy & Tsinoy (ピノイとチノイ)

sayakot2007-07-01

フィリピン人は、愛情をこめて自らを”Pinoy”(ピノイ)と呼ぶ。
一方、中国系のフィリピン人に対し、特に”Tsinoy”(チノイ)という名称を用いることがある。


現在、フィリピンにおける中国系(Chinese ethnic)の人口は約1.2%。
1975年まで、中国系エスニックはフィリピン市民権を持つことを許されていなかったが、現在は95%が、正式に市民権を持つ「フィリピン人」である。
そしてその約半数はマニラに住む中流階級である。彼らの起源をたどると、9割は福建省、残りの1割は広東省だそうだ。



フィリピンにおける中国系エスニックの歴史は、「差別」と「同化」、「分離」と「統合」のダイナミックな歴史である。
そして今なお、中国系フィリピン人たちはその大きなうねりの中にいると言っていい。


先日、マニラ旧市街にある ”BAHAY TSINOY (チノイの家)“という博物館を訪ねた。
地元の中国系コミュニティの寄付によって創設・運営されているこの3階建ての建物は、フィリピンにおける中国系エスニックの歴史を、現代からなんと氷河期に遡って紹介している。


展示によれば、スペインによる統治が始まるはるか昔、10世紀までには、中国との交易は、フィリピン全土で行われていたそうだ。
そして、スペイン支配の開始と共に、要塞や教会、学校など、植民地建設のための労働力として、多くの中国人がこの島に流入する。


当時の中国人のコミュニティは「パリアン」と呼ばれ、インフラが整備されたスペイン人の居住地区とは一線を画された。パリアンには、単純労働に従事する貧しい中国人も多くいたが、優れた商才で、瞬く間に財を成す者も現れる。膨張する中国人コミュニティを恐れたスペイン人は、1790年までに、9度に渡ってパリアンを焼き討ちにし、また、その度に多くの虐殺が伴ったという。


数ある展示の中で、特に興味深かったのは、フィリピンの英雄ホセ・リサールにまつわるもの。博物館を運営するセンターの調査によれば、リサールは、中国系フィリピン人の5世に当たり、同センターは、彼の曽々祖父がやってきた福建省晋江にある小さな村を実際に探し当てたというのだ。さらに、1999年には、リサールの妹の娘のひ孫(great grand niece)にあたる女性をその村に訪問させ、同地に、フィリピンのそれよりさらに大きい、リサールの銅像を建設したとのこと。(中国の片田舎にあるリサールの像。一度見てみたいような気もする)


他にも、対スペイン、対アメリカ、対日本---。自由への終わりなき抗争の中で、いかに多くの中国系エスニックたちが、フィリピンの独立のために「フィリピン人」と共に血を流してきたか、身に迫るパネルが多数あった。


これらは、もちろん、フィリピンのメインストリームとしては語られてこなかった歴史である。
フィリピンで生まれ育ったチノイたちの願いは、中国系エスニックの歴史を、フィリピン国家の歴史に加えることだろう。それは、今までピノイたちが信じ守ってきた「フィリピンらしさ」にただ同化するのではなく、自分達もまた、ひとつのフィリピンの歴史を形作ってきたのだという主張であり、そして、それを含めた新たな国家の歴史を求めているのである。


彼らの試みが、成功するのかどうかは分からない。
異質なものをしなやかに受け入れ、自らと同化させ、自身のアイデンティティをも創り変えてきたピノイたちにとって、チノイたちのこの試みは、一見相容れないものなのかもしれない。だが、歴史という大きな流れの中では、この反発と和解のプロセスもまた、ピノイたちの文化に新たな様相を加えてくれるものであるに違いないと思うのだ。