sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

ティグライにて。

sayakot2012-10-03

9/17-20まで、エチオピアの最北、ティグライ州に出張してきました☆


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エチオピアは言語や文化を異にする80を越える民族から構成されているが、中でもティグライ族の人々は、伝統的で、勤勉で辛抱強く、またホスピタリティに溢れている人々だと特に好意的に語られることが多い。その特別な敬意は、どこから来るのか。その一つには、ティグライの経験してきた歴史的な出来事が関係していると思われる。偶然なのか、なにか所以があるのか、過去百数十年の歴史を振り返るだけでも、ティグライはエチオピア国家の命運を分ける衝突に3度も関わっている。


まず19世紀後半、ティグライはアフリカの国として初めて西欧の国イタリアを撃退したと言われる、「アドワの戦い」の舞台だった。「植民地化に屈しなかった唯一のアフリカ国家」として、誇り高いエチオピアだが、その原点はティグライにあるといっても過言ではない。また1974年、「暗黒時代」を支配していた、時の社会主義政権に、17年に渡る山野での激しいゲリラ活動を展開させたのも、ティグライの人々だった。ティグライ人民解放戦線(TPLF)は、ティグライ全土の農村部から兵士をリクルートし、1991年の現政権の設立に中心的な役割を担った。先日急逝した故メレス首相も、ゲリラ時代からTPLFの雄弁な書記長としてその名を轟かせていた人物だ。更に、ティグライと国境を接するエリトリアとの独立/国境紛争でも、度重なる両者の衝突により、多くの人々が犠牲となっている。


ただし、今のティグライは平穏そのもの。かつてはそのほぼ全土が戦地と化したと聞いたが、その傷跡は、今では一見しただけでは分からない(もっとも、地方では時々、牧歌的な農地に突如として戦車の残骸が表れ、ぎょっとすることがあるが)。むしろ、厳しくそして雄大な自然に目が向く。雨季を除くと年間を通じて非常に乾燥するティグライでは、3000mをゆうに越える山々も、その下の低地でも、ゴツゴツとした巨大な岩や石が散らばる荒涼とした風景が多い。農民の家々も、エチオピアでは珍しく、泥や木ではなく、丁寧に積み上げられた、オレンジ色を帯びた石造りが中心。

そのせいか農村でさえ、どこかヨーロッパの田舎を思わせるような、落ち着いた独特の雰囲気がある。またティグライには、人の背の高さを越えるサボテンが多く生息し、家や農地の天然の垣根としてよく利用されている。そのオレンジ色のかわいらしい果実は、エキゾチックな果物として、時々首都アジスアベバでも見ることができる。種が硬く大きいのが難点だが、外見に反してとてもみずみずしく、柿のような味がして美味しい。


さて、出張の話。視察先への移動途中、3400m級の山脈に走る道を通ると、等高線に沿った石垣がなんと頂上付近まで延々と続いていた。石垣に守られるように窮屈に植えられた小麦畑には、高地らしい強い日射しと、冷たい風が吹きつけていた。わずかに残された大切な土を浸食から守るために、このような高地にまで石垣を築いた人々の知恵と忍耐力には心打たれる。

だが当然、土地は豊かではない。育ち盛りなはずの小麦は薄緑色で、穂は痩せている。自分達で十分な食糧生産ができないこの地域のほとんどの住民は、公共事業に参加し労働力を提供する代わりに食糧配給を受けるという“Work for Food”と呼ばれるセーフティネット事業に参加していると聞く。本来であれば、他地域への移住政策への対象となるエリアだが、住民たちは頑なにこの地と共に生きることを望むのだという。ティグライの人々の勤勉さと忍耐強さは、こうした過酷な自然環境にも由来しているのかもしれない。


山を越えて、ようやく視察先であるティグライ南部のRaya Azebo郡に到着すると、私たちの事業で支援している農民の農地は、明らかな降雨不足に直面していた。例年雨不足に陥りがちな同地域に、私たちは今シーズン、乾燥に特に強い緑豆の品種を紹介し、興味をもった農民の土地に植えてもらっていたのだが、つい1,2週間前まで順調に育っていたらしい緑豆は、一見きれいな緑色を残していたが、その足下は乾ききって硬くひび割れた土の上で、立ち枯れ寸前となっていた。


私が所属するNGOでは、アフリカの零細農民に対して、改良品種や肥料、より効率の良い農法等を普及し、増産と収入向上のお手伝いをすることを主なミッションとしているが、乾燥に特に強いと言われるその新しい品種も、水の全くない環境で生き続けることはできない。農地の所有者である農民によると、その緑豆は、花を咲かせるところまで順調に育っていたが、そのタイミングで雨が完全に止まり、結実に至らないまま、今の状態になってしまったのだという。最寄りの水場まで数キロ先という環境では、死にかけた植物を回復させるだけの十分な水を、農地全部に行き渡らせることは不可能だ。希望と共に手塩にかけて育ててきた農作物が、徐々に朽ちていくのを、なす術もなくただ見ているしかできない無念さはどれほどかと思うと、胸が締め付けられた。畑一面に植えられた作物が乾ききった大地に立ちつくしている光景が、こんなに悲しいものだとは知らなかった。


「あと1回、この土に深く浸透するだけの雨が降りさえすれば、こいつは持ち直すことができるのにーー。」出張に同行したエチオピア人の同僚は、悔しそうにつぶやく。だが見渡す限り晴れ渡った空には、遠くの遠くまで、雲の欠片すら見えない。照りつける日射しはただただ熱い。


どれだけ耐性のある作物にも、限界はある。それが、慢性的に水不足に陥りやすい地域の厳しい現実。このような環境には、灌漑システムを導入しない限り、安定的な農業生産は望めない。しかしそれには莫大な費用が必要で、私たちのような1NGOが広域でカバーすることは難しい。人口の8割が農業に従事し、その大部分が零細農民というこの国では、生活を少しでもよくするために必死に働いている人々は無数にいる。その中で、「成果が見込めない」かもしれない最も困難な地域に住む農民たちを活動の対象とするのか、「ある程度」の成果が期待できる地域ーーこの場合、一定程度の降水量や灌漑水が見込める農民たちを対象とするのかという選択は、非常に大きなジレンマだ。


さて、次に訪ねた女性の農民の土地も、同様の状況だった。先ほどの畑と同様、無惨に枯れ始めた緑豆の畑を前に、私はかける言葉が見つからなかったが、先ほどのエチオピア人の同僚は、「どうか希望を失わないでください。あと1−2週間以内に雨が降れば、まだこの作物は回復するチャンスがありますから」と、ふりしぼるように言った。すると、思いがけない言葉が返ってきた。


「いいえ。私たちは希望を失ったことなんてありません。困難は私たちの生活の一部ですから。あたなたがたが持ってきてくれたこの新しい作物は、この土地の厳しい乾燥にもずいぶん耐えてきてくれましたよ。この作物は、私たちに大きな希望をもたらしてくれたのです。だから私たちは、来年も同じようにこれを植えてみたいと思っているわ」と。その言葉には、なんの悲壮感も感じられず、むしろ力強かった。


この地域には州政府が現在灌漑設備の導入準備を進めているが、実際に水が引かれるようになるのは、2年、3年先と言われている。それまで彼らはどうやって生活するのだろうか。私たちがまた来年、同様の作物を紹介したとしても、同じ結果になってしまう可能性は大いにある。だが、そこで生活する人々が、農業を生きる術とする限り、私たちは彼らに寄り添い続けるべきなのだろうか。それがたとえ、砂漠に水を蒔くような仕事だとしても。その答えは、いまだによく分からない。