sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

語りえぬもの

sayakot2007-07-04

今日は、第二次世界大戦中のマニラにおける戦闘(The Battle of Manila)の記録を追ったドキュメンタリーを見た後、フィリピン大学で歴史を教えるリカルド・ホセ教授による講演に出席。毎年お盆の頃になると放映されるNHKのドキュメンタリー制作にもしばしば携わっているというリカルド教授は、静かな情熱を内に秘めた、とても気さくな人だった。


The Battle of Manilaは、1945年、すでに背水の陣にあった日本軍とアメリカ軍との間で展開。日本軍が市民に向けた虐殺と、熾烈な攻防戦の中で、10万人近いフィリピン市民が犠牲となった。その凄まじさは、歴史についてあまり多くを語ろうとしないこの国において、この戦闘がいまだに人々の共通の悲劇として挙げられる数少ない出来事の1つであることからも察することができる。マニラが「世界で2番目に壊滅的な被害を受けた都市」であるということは、歴史を語る際、フィリピンの人々の口からしばしば耳にする言説である。



フィリピンには、統一の歴史教科書が存在しないそうだ。
そのため、小学校から高校までの歴史の教科書には、日本軍の凶行を徹底的に糾弾し尽くした教科書から、逆に、アジアの一部としての自我を結果的に目覚めさせた日本支配をむしろ好意的に解釈した教科書まで、無秩序に混在しているのだという。


さらに、スペインによる「発見」・支配から現代に至るフィリピンの歴史の中で、第二次世界大戦の歴史は、その「一部」として完全に相対化されているばかりか、カリキュラムの都合上、学期の終わりか合間に扱われることが多く、ほとんどフォーカスを当てられることなく、うやむやに終わってしまうことが多いのが現状とのことだ。
そして当然の結果として、Battle of Manilaどころか、自分の国がかつて日本に占領されていたということさえ知らない(あるいは関心がない)若い世代が著しく増えているのだと、教授は情けなさそうに言う。


何故、そんなことが起こりうるのか。


そのヒントは、これまでにも何度が登場した、人々の”forgetfulness (忘れっぽさ/忘却させること)”にある。「忘れっぽさ」など、人々が経験した悲劇を考えればあまりに陳腐な言葉に思えるのだが、これらは実際に、フィリピン人自身の口から聞かれる言葉なのである。


教授によれば、その”forgetfulness”の要素の一つは、トラウマであるという。たしかに、その傷の深さゆえに、多くの生存者たちが、この悲惨な出来事を、共通の経験として口にし語り継ぐことよりも、辛く悲しい個人的な過去として封印することを選んだ、という行動は想像のできる話かもしれない。


そしてもう一つの要素に、彼は、キリスト教の”forgiveness(許し)”の観念を挙げた。この「許し」という考え方も、私自身、”We are forgiving people.” という言葉として、フィリピン人の友人から実際に耳にした。「罪を憎んで人を憎まず」を素で実践できるような愛情深い人たちに、この島でたしかにわたしは何度も出会ってきた。


だが、それだけだろうか?
失った親を、子供たちを、友を、人々は本当に全て「忘却」してしまいたかっただろうか?
それ以外の圧力は、まったく存在しなかったのだろうか?


一瞬、意外そうな表情を見せながら、教授はためらうことなく応じてくれた。


日本政府からの莫大な資金援助に依存する、フィリピン政府からの圧力。


下記は、2004年におけるフィリピンへの主要援助国の実績。(外務省)
(1) 日本(30%)(2)アメリカ(18%)(3)ドイツ(9%)(4)オーストラリア(8%)


第三世界」の一国として経済成長に伸び悩み続けるこの国にとって、日本はこれまで、寛容で重要なドナー国であり続けた。
また、日本からの観光客の誘致が、貴重な外貨獲得の機会であることは言うまでもない。


マニラ旧市街にあるスペイン統治時代の城砦は、マニラを訪れる観光客の最大のアトラクションだが、これが戦時中、日本の憲兵によって使用され、そこで多くの市民や兵士が命を落としたことは、ほとんど記述がされていない。
教授によれば、マニラにいくつか点在する戦争の記念碑にも、戦闘の残忍さを示す言葉を排除するようにという圧力が働いた経緯があるとのこと。


語られているものと、語られていないもの。
目に見えるものと、目に見えていないもの。


言葉にならない声を逃さないよう、感性をいつも研ぎ澄ませていたい。