sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

RIP. Dear Chris

sayakot2011-11-23

日曜日の夜。思いもよらない訃報だった。2週間前、マリで会ったばかりだった。滞在先のマリのホテルのロビーで数ヶ月ぶりに会うと、“Hi, Sweetie”と、いつものようににこにことして、温かいハグで迎えてくれた。何ヶ月も続いた深い咳がようやく収まって、前よりも元気そうに見えた。話したいことは色々とあったけれど、わが組織Sasakawa Africa Association (SAA)のExecutive Directorである彼は、年に1度の理事会とSAA25周年記念行事という大きな2つのイベントでとても忙しかったから、次の機会でいいと思っていた。また1ヶ月もしないうちに、エチオピアに出張して来るはずだったから。それが、メキシコの自宅で突然倒れ、彼は帰らぬ人となってしまった。


2, 3ヶ月に一度、彼は出張でエチオピアに来た。タイトなスケジュールの合間をぬって、よく2人きりでお茶やランチに連れ出してくれた。仕事の話、恋愛の話、日本の家族の話を、いつもうんうんと嬉しそうに聞いてくれた。ずいぶん前に話した細かなことまで覚えてくれているので、よく驚かされた。


わたしが、農業の専門性が強くベテランスタッフの多いSAAで、自分に一体何ができるのかと悩んで自信を失ったときも、彼はいつも力強い味方でいてくれた。“君はほんとうによく頑張ってくれているよ、今のSAAに必要なのは、そういう若いエネルギーなんだ。君のプロジェクトでの経験を、ぜひ僕やSAAの皆に教えてほしい。君はいま、SAAにとってもすごく大切なことを経験しているんだよ――。” 一年の半分以上、世界中を飛び回り、世界のトップクラスの農学者やフィランソロピスト(慈善家)や政治家や、現場の人々との親交を持つ彼にそんなことを言ってもらっても、真に受けてよいはずもないのだが、それでも彼は、心からそう信じていてくれているようで、それがただただ本当にありがたかった。彼の眼差しは、いつも温かかった。「――でも、仕事も大事だけれど、プライベートも大切にしなければいけないよ。遠距恋愛なんて僕は信じないんだ。」と、茶目っ気たっぷりにそんなアドバイスもくれた。


どこまでも頑固で、でも純粋な人だった。子どもが大好きで、女性スタッフが生まれたばかりの赤ちゃんを彼に見せにくると、必ず、目を細めて抱き上げ、愛おしそうにキスした。その写真を撮ってあげるととても喜んで、必ず送ってくれよと念を押した。


そしてアフリカの農民の話になると――とりわけ、農村の貧しい女性たちの支援の話になると、いつまでも話が止まらないことは有名だった。彼はよく、熱くなりすぎてまっ赤になった自分のはげ頭を無意識に撫でながら、わたしたち一人一人の目をまっすぐ見つめて、SAAがアフリカの農民のために描くべき道のりを、ビジョンを語った。SAAと共に25年をアフリカに捧げた彼には、アフリカの農業の現状を本当に変えるために、自分たちが果たしてきた役割も、その限界も、これから歩むべき道筋も明確に見えていたと思う。


彼はプロジェクトには常に、効率性を求め、そして事業終了後もその効果が持続的できるか、他地域にも応用・拡大できるかを厳しく問うた。わたしの担当するプロジェクトの受益者が、女性組合のメンバーわずか5-600人であることに対しては険しい顔をして、“いくらドナーが助成金をくれたからといって、余計な予算を投入してはだめだよ。いくら現場から要望があったとしても、実際には使いこなすことも出来ない機材を投入したりしたら、それは見てくれのよい「ブテッィク」の飾り物を作っているのと同じなんだから――。” と、厳しい口調で言ってくることもあった。多くの開発現場で起きている、持続性も他地域への広がりも見込めない「ブテッィク」プロジェクトは、彼が最も嫌うものだった。でもそうした話の後は必ず、「さっきはついきつい口調になって悪かったね。でも君なら僕の言っている意味が分かるはずだ。僕は君がきっといいプロジェクトにしてくれると信じているからね。」と、フォローのメールを送ってくれた。


もっと話をすればよかった。以前の写真を振り返ってみて、彼と一緒に写った写真が一枚もなかったことに驚いた。また何度でも会えると本当に思っていたから。最後に彼とやりとりしたメールは、マリから帰国した後。「すごく気に入ったから、来年のSAAカレンダーに使おうと思ってるんだ!」という無邪気なメッセージと一緒に、農村の若者に肩を組まれて笑顔になりすぎて顔がくちゃくちゃになった私の写真が添付されていた。これが最後のメールになるとも知らず、「光栄だけど恥ずかしいからno thank youだよ」と、かわいくもない返事をしてしまった。そしてそれが最後になった。


月曜日の朝10時、会議室にスタッフ全員が集まり、黙祷と祈りを捧げた。同僚たちが祈りを捧げる間、わたしはただ、彼のにこにこした笑顔を思い出していた。耳を澄ますと、“Hi, Sweetie”という言葉が今にも耳元に聞こえてくる気がした。


その日は終日、各国事務所のスタッフのメーリングリストに彼を悼む声が飛び交った。「彼を失ったことは、私たちにとって大変な損失です。」「神様は私たちには分からない別の計画を彼にお与えになりました。」「彼の魂が永久の平和に導かれますように。」そんなフレーズが何十通も繰り返され、それを読む度、彼がわたしに残した色鮮やかな思い出が、単調な一色に塗り替えられてしまった気がし、冷めた気持ちがした。彼がいなくなったことを本当に悲しむことができる特権を自分だけが持っているような、そんな錯覚があった。


2日たっても、3日たった今でも、オフィスはひっそりと静まり続けている。ふと気づいたのは、彼と何十年も「同志」として「兄弟」として共にアフリカの貧困と「闘って」きたシニアスタッフの沈痛な面持ち。就任以来、組織の方向性を巡って何度も彼と激論を闘わせてきたJ女史の泣きはらした顔。他の同僚たち一人ひとりの表情に刻まれた、深い喪失感ーー。今更ながらわたしは、彼がいかに周囲の一人ひとりに対してーージェンダーも地位も国籍も関係なくーーその人だけのための特別な愛情を注いできた人であったかということに気付かされる。彼はいつも人間のポジティブな面を見つけ、それを本当に信じていた。そして今わたしは、人生の中でそういう彼に出会えたということが、自分にとってどれほど幸福で特別なことであったかということを、改めて感じている。

ラリベラ巡礼

sayakot2011-09-29

エチオピアに赴任してからはや1年3ヶ月。仕事の関係でこれまで国内東西南北の農村や地方都市に足を運ぶことはあったものの、旅行らしい旅行の機会はなかなかなかったのですが、今回ようやく、以前から気になっていたエチオピア正教有数の聖地「ラリベラ(Lalibella)」に出かけることができました♪


○○○
アジスからラリベラへは小さな飛行機で約2時間。朝7時半発の便に乗るために、起床時間は朝5:30。眠たい目をこすりつつ飛行機から地上を見下ろすと、青々とたくましく育った大麦やメイズ、ソルガムが狭い農地にひしめき、その隣には、雨季の終わりを告げるマスカル・フラワーが黄色の可憐な花を咲かせている。空高い太陽の光が、一年で最も爽やかな季節の始まりを感じさせる。


ラリベラは1978年にユネスコ世界文化遺産にも登録されたエチオピア正教の聖地の一つで、またこの国随一ともいえる観光地。12世紀初め、イスラム勢力に支配されたために聖地エルサレムへの巡礼が困難になったことから、時の名君ラリベラ王がこの地に第二のエルサレム建設を試みたことが始まりと言われている。この地には12mを超す巨大な一枚岩を彫り抜いて造られた岩窟教会が12あり、それぞれの教会とその周辺には、ノアの箱船ヨルダン川シナイ山ゴルゴダの丘、といった新旧約聖書に馴染みのあるモチーフが多数散りばめられている。

これまでガイドブックの写真やポスターで何度も見てきた岩窟教会は、実際に目の前にするとその迫力にただただ驚かされる。何十年という年月をかけて彫りぬかれ、その後も何百年という歳月を雨風にさらされながら、人々に守られ、信仰の象徴としてそびえ続けてきた重みがそこにある。
教会を囲む壁に垂直に彫られたいくつもの穴には、つい最近まで、無数の僧侶のミイラが納められていたそうだ(1体だけ、今もむき出しで残っているのを見たが)。信仰と共に生き、その場所で天に召され、そして歳月と共に風化してゆく教会と一体となるーーそれはもしかしたら同地の人々の理想の信仰の形だったのかもしれない。

もっとも、エチオピア人以外のキリスト教徒には、アフリカ大陸の、しかも辺境の地ラリベラで、「第二のエルサレム建設」というある意味“恐れ多”すぎる壮大な計画が立てられ、実行に移されていたことなどほとんど知られていないと思うが、一刀一刀削られて生まれた教会の壁を眺めながら、当時の人々が信仰にかけた執念を感じた気がした。


ところで、ラリベラの主要な教会群は町の中心にあり、ホテルからも徒歩10分くらいで行くことができるのだが、1つ、アシェトンの聖マリアム教会(Ashetan St.Maryam Church)だけは3000メートルを越える山の頂にあり、わたしたちはラバ(ロバと馬の合の子)に乗り2-3時間かけて登って行った(もちろん徒歩でもOK、車はNG)。ちなみに「ラバ」は地方では比較的身近な乗り物で、一代限りで繁殖能力がない代わり、馬の力強さとロバの耐久力をもった個体となることから市場価値が高い。体高が低くおとなしい上、基本的には持ち主が終始引いてくれるので、道中はのんびりその背中に揺られていればよいのだが、何カ所か、絶壁で道が狭まる箇所では、危険なのでいったん降り、徒歩で通過する。


この日は一週間に一度のマーケットの日だったこともあり、山道では途中、マーケットで売るための穀物の大袋や薪や木材を背負った人々に何人もすれ違ったのも興味深かった。


スタート地点から約2時間半。視界が急に開けると、そこには桃源郷のような風景が広がっていた。首都では見かけたことのない、やさしい青や紫色をした花々が野に咲き乱れ、点在する小さな畑では大麦の緑の穂が風に揺れている。裸足の子どもたちや女性たちが羊を放牧している。そしてその背後には、霞がかった頂上がようやく見えてくる。ラバの主人が、先ほどの大麦畑を指し、これは俺の畑なんだと自慢そうに教えてくれた。


頂上には、目的の聖マリアム教会。やはり大きな岩を彫り貫いた岩窟教会形式で、このような地での建造作業には一体どれだけの歳月を要したのかと思いを馳せる。この教会はラリベラの町を見下ろし、天国にもっとも近い教会として今でも人々の信仰を集めている。深く霧がかった岸壁では、僧侶見習いの少年が、先輩僧侶に見守られながら教典を一生懸命読み上げていた。

教会横の小さな小屋では女性達がお供え用のパンを焼いていた。何百年とこの地で続けられてきた人々の信仰の姿が、そこにあった。


帰りがけ、子どもたちが4人駆けてきて、摘んできたばかりのお花をプレゼントしてくれた。ラバの主人の子どもたちらしい。父の帰りを待ちわびていたようだった。

ふと、バッグの底に以前から日本の祖母に持たされていた鉛筆を入れていたのを思い出す。エチオピアの子どもたちにあげてね、と預かっていたのだが、これまで仕事で訪ねてきたプロジェクトサイトでは、際限がなくなってしまうこともあってなかなか配る機会がなかったのだが、今回はお花のお礼にと、ま新しい鉛筆を数本ずつ渡してあげた。子どもたちに笑顔が広がった。ラバの主人曰く、一番年上の女の子は小学4年生なのだそうだ。いったいどこの小学校に通っているのだろうかと思ったが、標高3000mを裸足で駆け回る子どもたちの身の軽さを見るところ、町の小学校に通うために毎日山を下りているとしても不思議ではない。彼女達が大きくなる頃、この土地の風景はどのようになっているだろうか。


☆ ☆☆というわけで、2泊3日のラリベラ巡礼は、期待を超える素晴らしさで
した。ところでラリベラでは岩窟教会とラバに潜むノミ・ダニが凄い、といろんな人に聞いていた&ガイドブックにも載っていたので、全日つま先からおなか、お尻、背中まで強力な虫除けクリームを塗りたくって臨みましたが、結局激しくやられてしまいました。同地に旅行を計画される方はどうぞくれぐれもお気をつけ下さい。

村上春樹氏のスピーチ。「再生」に向けて。

sayakot2011-06-16

先日のスペインのカタルーニャ国際賞授賞式で、作家村上春樹氏が行ったスピーチ。原文を読むにつれ、忘れかけていた「晴れた春の朝」の陽射しのような明るさと温かさが心に浸透していくのを感じた。
今回の震災では、2万を越える命が奪われ、何十万という人々が住み慣れた街や村からの立ち退きを余儀なくされ、生活が失われ、多くの人の「故郷」の風景が荒々しく変わった。社会には未だに、これまでに経験したことのないレベルの混乱と不安が満ちている。しかし今回の村上氏のスピーチは、それだけの混乱と深い悲しみの中にさえ、古来から自然と共に生きてきたわたしたち日本人が愛(め)で、育み慈しんできたものの本質を見いだすことができることを思い出させ、そしてそこに「再生」への希望があるということを、気付かせてくれたように思う。


――(抜粋)我々は、「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。――


実は、震災が起きてからかなり最初の段階で-- 連日著名人がラジオや新聞で震災に対するその人の思いのうちや支援を発表している中で--、ふと、村上春樹氏は今何を思っているのだろうという疑問が、頭をよぎったことがあった。16年前の阪神大震災が神戸出身であった村上氏に大きな衝撃を与えたことは、彼のその後の作品を通して知っていたけれど、今回の震災は、自分の生まれ育った街の様相が一夜にして失われてしまったこと対する個人のノスタルジックな感傷(言い方はとても悪いけれど)という次元を越えて、日本という国の存続が文字通り根本から揺るがされる出来事だったからだ。「未曾有」という言葉さえ陳腐な気がして憚られるこの混沌とした状況に対し、村上氏は何を語るのだろうか、そう思っていた。


そして今回の村上氏のスピーチはまた、震災、原発事故に伴う一連の事態が、唯一の被爆国として戦後の日本社会が辿ってきた65年間の歩みを、根本的に問うものであったことも明確に示した。09年、氏がエルサレム賞受賞の際に「卵と壁」と題するスピーチでイスラエルの対パレスチナ政策を痛烈に批判した時のように、氏はわたしたちが「システム」という巨大な「壁」(機構)の一部に漫然と組み込まれ、その暴走に間接的に加担してきた責任も指摘した。今わたしたちは、たとえ無力な「卵」であったとしても、被害者であり加害者であったわたしたち自身の覚悟として、決意として、一人ひとりが、被災地を含めた日本社会全体の「再生」のために、社会と向き合い、そのプロセスに参加する必要があるのだろう。震災以来探していた何かの答えの一部が、見つかったような気がする。


原文は、こちら:
毎日新聞村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(上)
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040017000c.html
毎日新聞村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(下)
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040019000c.html


ところで、是非海外の友人たちにも共有したいと思って、英訳のフル・テクストをインターネット上で探そうとしたけれど、どうしても見つけることが出来なかった。代わりに見つけることが出来たのは、”Haruki Murakami criticizes Japan’s nuclear policy”とか “Novelist Murakami raps Japan’s nuke policy during award speech”といったヘッドラインの数々。彼が示した壮大な再生の物語の始まりを、つまらないエネルギー政策批判の記事に集約されてしまうには、あまりに惜しい気がしてならず、是非このスピーチを日本の決意として世界に発信したいもの。どなたか適切な訳をご存知でしたら、教えてください♪


追記:英語訳、見つけました!
http://www.senrinomichi.com/?p=2541

エチオピア復活祭

sayakot2011-04-26

先週末はエチオピア最大の宗教である正教会イースター(復活祭)。先週の金曜日から今週の月曜までオフィスもお休みだった。


エチオピア正教徒の信仰深さについてはこれまでも何度かご紹介してきたが、イースターまでの55日間の「断食」期間は特筆すべきものかもしれない。「断食」といっても、何も食べないわけではもちろんないが、この間、彼らの食生活からは肉、乳製品、卵などの動物性の食物が一切排除され、穀物、豆類、野菜だけが日々の食事となる。断食のことをうっかり忘れて事務所のスタッフにケーキやらクッキーやらを差し入れても、誰も食べてくれないのだ。


イースターはその長い断食生活がようやく終わることもあり、女たちはその2、3日前から特別なお祝いための買い出しにとりかかり、当日はご馳走の準備に追われる。町の通りは、両腕に鶏を抱えて市場から足早に帰路につく女性や、必死で逃げようとする羊たちを鞭で打って追う男たちでどこか慌ただしいが、一方で、民族衣装であり信仰の象徴でもある白い布「ナテラ」をまといしゃなりしゃなりと歩く女性たちや、いっちょうらの服を着せられて大人に手をひかれるおすました子どもたちの姿もあって、いよいよ特別な日がやってきていることを感じさせる。


“Good Friday”と呼ばれるイースター直前の金曜日の午後2時半。大家氏に誘われて、大家氏夫妻と3人の息子たちと一緒に近所のマダハニアレム正教会へ出かけた。教会の多いアジスアベバの中でも、ひと際目立つ、巨大で立派な教会だ。白い木綿の布を奥さんに貸してもらい、わたしも他の信者の女性たちに紛れるように顔を少しだけ覆う。気分はすっかりにわか信者。


出発のとき、大家氏が‘ござ’を車に積んでいるので何かと思ったら、それは教会の敷地で敷くためのもので、家族で腰を下ろし、スピーカーから流れてくるお祈りを聞くためのものだと後で分かった。教会に到着すると、建物に入りきらず溢れた何千という信者たちが既に敷地のあらゆるスペースに座り込んでいる。桜もビールもカラオケのどんちゃん騒ぎもないが、こうして家族毎に集まりござの上で心を寄せ合う姿は、日本人にとっての花見のようなものかもしれない。


さて敷地では、よく見ると、スピーカーの祈りの音に合わせて人々が立ったり座ったりを繰り返している。しかも、ただ座るのではなくて、四つん這いになり土下座をするかのように額をしっかりと毎回地面につける。そして休みなく、また立ち上がり、座り、を繰り返すので、単純ながらも実はスクワットのようにハードな動きであることがみてとれる。聞くと、それは罪を浄化するための祈りだそうで、毎年この時期のみに行われるものだとのこと。本来であれば告白される罪の大きさによって、司祭が個々人に「200回」「50回」等の回数を申し渡すものだそうだが、わたしたちの周りには司祭らしい人は見あたらず、各自がめいめいに心に決めた回数を実行しているようだった。わたしも見よう見まねでやってみたけれど、50回を越えたところでギブアップ。残りの時間は同じく早々にギブアップした大家氏の奥さんと一緒に座って流れてくる祈りの言葉に耳を傾け、汗を光らせひたすら祈りを続ける大家氏とその息子たちの様子を見守った。
子どもも大人も、貧しい者も富める者も、額を地べたにつけてひたむきに祈りを捧げるその光景には、長い歴史を信仰と共に生きてきたエチオピア正教徒たちの高潔さと連帯感を感じずにはいられなかった。


○○○
さて。断食の「解禁」は日曜日の朝3時(!)。この日は「ドロワット」と呼ばれる鶏肉と卵の入ったシチューのご馳走を、酸っぱいエチオピア風パンケーキともいえる「インジェラ」と一緒にぐちゃぐちゃと混ぜて食べるのが一般的。日曜の朝、自宅でテニスに行く準備をしていたところ大家氏が電話をくれ、このご馳走のご相伴に与ることになった。ほかのエチオピア料理同様、唐辛子スパイスの味が強く、また油をたくさん使うことから、朝食にしてはかなり重たいのだが、大家氏のリビングでは一家が朝からもりもり食べていた。聞くと、この日大家氏は朝3時にご両親の家に挨拶にでかけ、そこで親戚一同でドロワットを食べ、そして自宅に戻って睡眠、そしてまた朝、改めて今度は家族だけでドロワット朝食をいただくというスケジュールだったのだとか。たくましいなあ。(ちなみにわたしは運動前だったので少し控えめにいただきました。。。)

◇◇◇
写真は、教会の敷地の片隅で、ひたむきに祈りを聴く若い女性。

こんな時だからこそ。

sayakot2011-04-03

震災から三週間。連日特集を組んで東日本大震災をとりあげていたBBCニュースも、今は時々福島原発に関するニュースがある他は、関連して欧米で高まる市民の反原発デモの動きを伝える報道があるくらいで、あとは以前のようにリビアやシリア、アフガン情勢がまた主を占めるようになった。ニュースの合間には、ケニアのマサイ族に英国のスポーツ「クリケット」を教えるために奮闘する白人女性へのインタビューやら、インドの奥地に住む部族のドキュメンタリーなどが繰り返し放送され、なんだかなあという気分。もちろん震災前は喜んで見ていたのだけれど。


というわけで最近はもっぱら、朝日、読売、毎日、日経新聞の震災に関するオンライン記事を日々くまなく読んでいる(オンラインで天声人語まで読めるのはすごいことだ)。また、友人や知人に勧められるブログを通じて、人々が(被災地の人も、東京の人も)どのような気持ちで今のこの瞬間を過ごしているのかということを少しでも感じようとしている。被災者の方々にとっては何の気休めにもならないのは分かっていても、せめて心だけでも日本で暮らす人々と共にありたいと思うのだ。そんなわけでこのところのわたしはエチオピアにいながらも、どこか常にぼおっと、意識が遠く日本をさまよっているような感覚が続き、また今までにないほど熱い想いを母国に対して感じている。


でも、プロジェクトは待ってくれない。この3週間の間にも、南部地域の63名の女性メンバーをもつ農産加工組合に対して、加工技術の導入研修(8日間)を行ってきた。カウンターパートの郡の農業局の職員などは「今回の日本での出来事は本当に大変だったわね、あなたの家族は大丈夫だった」と心配そうに声をかけてくれたが、研修を受ける女性グループのメンバーのほとんどはそうした情報とは無縁。家にTVを持つ女性は皆無だし、文字を読める女性も一握り。彼女たちは、日々まず生き延びなければいけない。夜明けから日暮れまで、家族や家畜、畑の世話に追われる農村女性にとって、8日間ものあいだ研修に参加するというのは並大抵なことではない。(普段よりも遅くに帰宅しために夫に殴れた女性もいたということは後になって聞いた。)


生後3週間の赤ちゃんを連れてやってくる若い母親もいた。彼女たちは、研修を通じて学ぶ加工の知識や技術を通じて収入を向上させ、裸足の子どもたちに靴を、食べ物を、雨もりのしない屋根を与えてやりたい母親たちばかりなのだ。まる8日間の研修は、食の衛生や食材の選び方、取り扱い方、クオリティ・コントロールの重要性を含むレクチャーに始まり、その後は実際に地元でとれる食材を使ってのプラクティカルな練習が続く。


「田舎の農民の私たちが作るものなんて、本当に町の人がお金を出して買ってくれるのかしら」そんな半信半疑の女性たちに「私たちを信じてやってみて!」とハッパをかけながら、最終日にはスパイスやトウモロコシ粉など24種類の商品が簡易のコンテナショップに並んだ。小さな店は招待した郡・県の農業局の職員のほか、もの珍しさで集まってきた村人でごった返し、当日は3000ブル(1万5000円)以上の売り上げを記録した。研修の修了式では一人一人の名前を読み上げ、修了証書を渡した。メンバーの半数は、これまで学校に行ったことのない女性たち。大切そうに修了書を受け取ってそれを眺める彼女たちの誇らしげな表情は忘れられない。


ところで最近、縁あってアフリカの給食事業を支援する日本の某NGOの代表の方から、震災を受けて同団体に対する協賛企業からの支援キャンセルが続いているというお話を聞いた。またそれどころか、日本を支援することが急務である今、アフリカを支援するなど「非国民」だとして、半ば脅迫めいた中傷を受けることもあるのだというから驚いた。


前代未聞の災害だから、企業にもそれぞれ事情があるだろう。やむを得ない状況下で、やっぱり今はどうしても支援できませんと一歩引くのは分かる。だがそれが踏み絵のように歪んだ閉鎖的なナショナリズムに結びつけられるとしたら、それには今の日本の向かう先に対する危うさを感じる。日本人にとっての「支援」とは所詮、余裕の「ある」者だけが「ない」者に対して一方的に行う、All or Nothingの特権にすぎなかったのだろうか。


アフガニスタン政府は先日29日、日本に対する8200万円の寄付を発表した。声明で同政府は、「日本はアフガンの最大の支援国の一つで、国民は常に感謝の心を持ち続けている」とした上で、「我々自身も財政問題を抱えているが、日本の復興に向け、積極的に貢献したかった」としている。
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110329-OYT1T00927.htm?from=navr


また25年以上に及ぶ内戦が明けたばかりのスリランカ政府も同様に、スマトラ沖大地震で大きな被害を受けた同国に対して日本が行った支援に言及し、「あのとき我が国を助けてくれた友人の日本に、できる限りの協力をしたい」とし、同様に約8000万円の支援を発表した。
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103310138.html


言うまでもなく、いずれもいまだに世界各国から援助を受けずには成り立たない国家である。アフガンの情勢はいまだに予断を許さないし、スリランカは数ヶ月前も洪水による広域の大被害を出している。それでも、両国の国民は、自国の政府の今回の決断に、「非愛国」的だと言うだろうかーー?


正直なところ、戦後最悪といわれる未曾有の事態にわたし自身もまだ、日本人が、個人として、企業として、社会としてどのように向かい合うべきなのかまだよく分からないでいる。特に被災地では「アフリカ」のことなど、「途上国」のことなど、考える余裕などなくて当たり前だろう。でもダイレクトに被害を受けていないわたしたちは、企業は、社会は、この強烈な共通体験を通じて、今後の日本がどのような方向に向かおうとしているのか、もっと冷静に見つめ直す必要があるのではないか。未だかつてないほど、世界が日本に対する「つながり」を示している中で、これからの日本はどのように応えることができるのだろうか。

がんばれ、日本。がんばれ、東北。

sayakot2011-03-15

“I’m very sorry about Japan, Sayako”
11日の朝、オフィスで作業をしていると、そう申し訳なさそうにドライバーに言われた。え、何が?と返して知った東日本大震災。つい先ほどまで東京で働く同期とメールでやりとりをしていたばかりだったので、きっとドライバーが先日中国で起きた地震と勘違いしているのだろうと思った。だが念のためと思って開いた朝日新聞のウェブサイトを見ると、震源地は東北、M8.9という数字が飛び込んできた。


家族全員の無事が分かるまでは、1時間だったか、2時間だったか。東京はそこまで被害は受けていないはずだから大丈夫と、家族の様子を心配してくるスタッフに対し冷静を装いながら、ずきんずきんと感じる自分の鼓動。
幸い家族と無事に連絡がついてからも、依然として続く余震と原発の情勢は、安心というにはほど遠い状況で、アフリカというはるか遠くの大陸にいるがゆえのもどかしさは積もるばかり。


これまでリビアチュニジア象牙海岸の争乱の話題で持ち切りだったBBCのトップニュースは、一夜を境に“JAPAN DISASTER”の文字が連日飾るようになり、BBCを通じて刻々と変わる母国の情勢を知る日々は、あまりに“Surreal (非現実的)”に感じられる。テレビに釘付けになりながら、津波にすべてをさらわれ無惨に残された瓦礫の山を見るにつけ、そして繰り返し流れる無機質な発電所の爆発を見るにつけ、本当にこれが自分の生まれ育った国のことかと信じられない思いがする。「心にぽっかりと穴があいたよう」と、同様にアフリカにいる日本人の友人が表現していたが、本当にその通りだと思う。


そうした中で、世界の友人たちからの励ましは何にも代えがたい支えになっている。ハノイでのインターン先の上司Cさん、カリフォルニアでの幼児期を共に過ごしたアメリカ人R一家、コスタリカのホストファミリーのホセ&マリア、大学・大学院時代の同期の数々、メキシコ時代のプロジェクト仲間、お世話になったホステルのおばさん、、、。この数日間で届いたメールやメッセージは数知れない。「私たちの心は日本と共にあります。」そのシンプルな一言が、心に響く。
またここエチオピアでは、オフィスの仲間はもちろん、大家氏やメイドのM嬢、馴染みのタクシー運転手たちからも次々に温かい気遣いのメールや電話が届く。同僚のドイツ人A氏夫妻は何かできることがあったら何でも言ってくれとそう言うために、週末わざわざ家を訪ねてきてくれた。


メディアを見ていても、戦後最大という極限の状況下を、支え合い乗り越えようとする日本の人々に対して世界から寄せられる敬意とエールに、ただただ胸が熱くなる。隣国の韓国、中国からさえも。

http://jp.wsj.com/Japan/node_196990

  • The Independent(英国)/朝日新聞:「がんばれ、日本。がんばれ、東北。」

http://www.asahi.com/international/update/0313/TKY201103130283.html

  • ソウル新聞(韓国)/読売新聞

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110315-OYT1T00015.htm

http://www.asahi.com/international/update/0313/TKY201103130126.html

  • NY Timesコラム(英文)

http://kristof.blogs.nytimes.com/2011/03/11/sympathy-for-japan-and-admiration/


大切な人の命を自分の命を失う恐怖を、また、失うかもしれないという恐怖を、日本につながりのある世界の全ての人々に突きつけた今回の出来事は、「平和ぼけ」と揶揄されながらこれまで平穏に生きてきた日本人にとって、人生観やアイデンティティーを根底から揺るがす強烈な「共通体験」となった(ている)ように感じている。言葉にならないほどのこの重い悲しみの時が、いつかやがて、極限の状況下でも人々が互いを思いやり、残されたものを愛おしみ、傷ついたものに対する心からのシンパシーを捧げた日として、そして世界中からの心からの祈りを受けた日として、人々の記憶に刻まれ、復興の礎となる日が来ることを願っている。


一人でも多くの命が救われることを、心から祈っています。


◇最後に、下記募金サイトの告知です。
日本財団では、今回の地震被害に際し、東北地方太平洋沖地震支援基金を立ち上げ、被災された方への支援を行っていくことになりました。
広く皆様方からのご寄付をお願いしたいと考えております。
http://www.nippon-foundation.or.jp/org/news/2011031202.html

いただきましたご厚意は、 社会的弱者に対する支援を長年行ってきた日本財団の強みを活かし、まずは障碍のある方や在日外国人の方などのいわゆるソーシャルマイノリティの方々をはじめ、学生、子どもたちへの支援にまず使っていく予定です。 ご関係者やご友人の皆様方にお知らせいただければ幸いです。

地方出張いろいろ。

sayakot2011-03-06

7組合目の調査が終了。残るはあと2組合。
今回つくづく思ったのは、どのグループもそれぞれに個性があって、それゆえに問題も様々。一括りに「農産品加工をしている女性組合支援」といっても、その対応のあり方はなかなか一般化しづらく、極端になりすぎない範囲で個別具体的に考えていかないとなかなか成果は見えてこないだろうなーという気がしています。


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さて。今回泊まったホテルは水が出ず、悲しいことに3日間シャワーなしでした。町で一番新しくて立派なホテルだと聞いていたので期待していたのに(といっても1泊1000円)。。。「水不足なの?」とホテルのマネージャーに聞いたところ、単なる設計ミスで上方のフロアに水が届けられないだけだそうな。完全に構造的な問題。完成するまで気付かなかったのか、途中で気付いたところで手遅れだったのか。でも自分がオーナーだったら大赤字覚悟で工事をやり直すか、水なしで強行営業するか、ちょっと悩むかもしれないですね。


最終日にはまた両足ダニにやられてしまいました。今回は両足15カ所。何度やられても、やっぱりかゆい。でもこれは上記ホテルでなくて、女性組合メンバーの家(農村)で作業をしていたときにやられたような気がします。彼女の家は、床も壁も泥と家畜の糞に麦わらを混ぜて固めたものでてきていて、農村では典型的なスタイル。家が倉庫も兼ねているので、積み上げられた穀物サックを狙って鶏が入り込んできたり、人恋しい犬や猫が自由に出入りするので、そこからもらった可能性が大。さらにエチオピアでは客人を家に招くとき、歓迎の意を込めて刈り取った草を床に敷きつめて緑の絨毯のようにする習慣があり、私たちの訪問中もそのようにもてなしてもらったのですが、聞くところによるとこの草にも虫が潜んでいることがあるそうな。いずれにせよ、こうした環境では予防するのは非常にムズカシイ。現地の人は刺されないですし。長引かないことを祈るのみです。


地方でちょっと困るのは、上記の水問題とダニ・ノミの他、野菜の不足。エチオピアの農村の食習慣には不思議なほど緑黄色野菜が登場しないのです。要は極端に穀物と豆類に偏っています。栄養に関する知識が普及していないこととも原因でしょうし、お腹がいっぱいになればそれで十分ありがたいという感覚もあるのかも。ちょっと町に出てレストラン(というか食堂)に行けば肉にはありつけますが、野菜や果物はやっぱり少なくて、3日も地方にいると新鮮な野菜が食べたくて食べたくて早くアジスに戻りたいなーと思ったりもするのです。


もちろん、地方には地方の面白さが十分にあります。何よりも嬉しいのは、出会う人たちから受けるおもてなし。


今回お世話になった農村のお母さんは、生豆から丁寧にローストし、細かく砕いたコーヒー豆から煮だしたブラックコーヒーを出してくれました。甘いコーヒーが好きなエチオピア人にしては珍しいなと思ったら、「砂糖がマーケットになくってね、ごめんなさいね」と恥ずかしそうに言われました。マーケットに砂糖がないなんてことあるのかなと思いながら、「日本人は(わたしを含め)砂糖なしで飲む人が多いんですよ」というと、ずいぶんほっとした様子でした。


話は変わりますが、このお家の飼っている毛足の長い生後2ヶ月の赤ちゃんロバが本当にかわいらしく、すっかり夢中になりました。名前はなんて言うの?と聞いたら「ブコロ(現地オロミア語で『小ロバ』の意)」と返ってきました。まあそりゃそうですね、ペットじゃないんだから。わたしがブコロ、ブコロと呼んでいたら、農家のお母さんが「そんなに気に入ったなら車に積んでアジスアベバに連れて帰りなー」と笑いながら言ってくれました。でも乱暴者の我が家の犬たちにいじめられるかわいそうな小ロバのことを想像すると、とてもオファーを受けるわけにもいかず。本当に残念。。。ちなみにこの地域の子ロバの相場は1500円だそうです(一応聞いてみました)。帰る間際まで、この子が家にいたら楽しいだろうなーと思いながら、意外に堅い背中の毛を名残惜しくずっと撫で続けました。というかこの子にもらったのかな、虫。


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写真は『小ロバ』ブコロと母ロバ。だいぶ見た目が違いますが。