sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

調査もろもろ

sayakot2011-02-20

6組合目のベースライン調査が終了。
気づいてみればプロジェクトが始まってからもう4ヶ月半。とにかく早く研修をしてほしいと苛立ちを見せる女性メンバーたちに、この調査の結果がとても大事なので、お願いだからもう少し待ってほしいと何度言ったことか。調査を通じた現状把握とニーズ・アセスメントがあってこそ、彼女たちに本当に必要な食品加工技術研修やビジネス研修をデザインでき、またプロジェクトの終わりにはその成果を計ることができる。もっとも、焦る彼女たちの気持ちはよく分かるので、わたしもこの調査の終わりが待ち遠しいのだけれど。


さて。一口に「調査」と言っても、一体実際に何をしているのかなかなか想像しづらいですよね。今回のエントリーでは、現在進行中の「調査」について、その簡単な行程とエピソードをいくつかご紹介します。


★ デザイン準備@事務所
Step1. 質問票の作成:プロジェクト目標、活動に合わせて質問項目を設計。    
Step2. レビュー&修正:内容に不明点がないか、フローに違和感はないか修正&再確認。
Step3. プレテスト:質問票のドラフトを持って、対象組合の条件に近いグループに実際に調査を試行。修正&再確認。


★直前準備@事務所
Step4. 調査対象者の選定 (組合員名簿から、約半数をランダムに抽出)
Step5. 対象組合、同地域の農業局・組合局への事前連絡
Step6. 質問票の印刷、記入用文房具類の購入


★調査実施@現場
Step7. 対象県/郡農業局・組合局へのブリーフィング
Step8. 調査員(5-6名)の選考&トレーニン
Step9. 対象者の家に調査員を派遣、調査開始(約2時間半/1家庭)
  ※ 各メンバーの自宅を知っている組合リーダーが道案内。車が通らない道は徒歩で。
Step10. 調査後の質問票の回収、内容確認(ヌケ・モレのチェック)
  ※ 4-5日間の滞在期間中に30-40家庭で実施。


◇調査員について
このプロジェクトには専属のエチオピア人スタッフが2名いるが、彼女たちだけで調査を行うのではとても人手が足りない。そこで彼女たちには監督役を担ってもらい、実際の調査はプロジェクトサイト毎に採用する5-6名の調査員が行う形をとっている。毎回現場で採用・トレーニングするのは手間ではあるが、現地の言葉や習慣、固有のコンテクストを理解する人材を現地で採用することの意味は大きい。調査員に求められるのは、短大卒以上の学歴と英語力(調査票が英語なので)、そして5日間完全に調査のために稼働できる時間。そんな人材が簡単に見つかるだろうかと最初は疑っていたが、地方には大学卒業後も就職先を見つけることができない若者が沢山いるのだ。


調査員の英語力は、地方によってばらつきがある。エチオピアの大学教育は基本的に英語で行われるので、一般には大学を卒業している=大抵の日本の学生以上に英語ができる、ことを意味している。ただ、調査員の英語のレベルが必ずしも収集されるデータの質に連動しているわけではないということはちょっとした学びだった。


例えば東部のB郡ではほとんどの調査員が国立大学出身で、皆慣れた様子で英語を話したが、海外の援助機関が多く競合しているこの地域では、調査員が「調査慣れ」しており、毎回ヌケ洩れの多いデータを収集してくるわりに、某NGOではいくら払ってくれた、某国際機関はこんなこともしてくれた、とたびたび調査費の値上げを要求された。同様の状況のH郡では、調査員が調査中に幻覚作用のある「チャット」を噛みながら寝そべって調査をしていたことが判明し、即解雇しデータを再取得することになった。


一方、もっと奥地に行くと、調査員の英語力自体にはつたなさが見られるが、雇用機会がより少なく、また「援助慣れ」がないせいか、一生懸命に取り組む姿勢が見られる。トレーニングに時間をかけ、ひとつひとつの質問の意味をアムハラ語で丁寧に説明していけば、最初の方こそ一定度のミスが見られても、慣れてくるときちんと精度の高いデータがあがってくる。データのとり直しを言いつけても、嫌な顔をせず調査家庭に戻っていく。また、「自分はこの地域出身なのに農村の生活にこんなに身近に触れたことがなかった。本当に勉強になった。」という嬉しいコメントまでくれたりして、一つのチームとしての一体感が築かれたりするから不思議だ。


◇調査対象者の反応
当然だが、対象者の協力は不可欠。2-3時間もの間、じっと座って見知らぬ調査員の質問に答え続けることはとても疲れるし、家計の収入や支出、食べ物に困ったことはあるか、子どもは学校に行っているか等々、センシティブな内容も多い。農村の女性は家族の世話、農作業、家畜の世話、水汲み等々ただでさえ忙しい上、調査日が市場の開催される曜日にあたってしまうと、負担は大きい。畑の野菜やミルクを新鮮なうちに売りにいかなければいけないからだ。


そうした意味で、調査開始前には本当に女性たちの協力を得られるか心配だったのだが、長年SAAが築いてきた信頼関係の蓄積もあり、この点についてはほとんど問題がなかった。しかし、、、。


南部のある女性グループでの出来事。女性の代表メンバー(Executive Committeeと呼ぶ)たちに情報共有をしようと調査対象者のリストを読み上げたところ、思いがけない展開に。リストに名前が挙がらなかった女性たちが、より重要なメンバーが選定されたのだと思い込み、パニックを起こしたのだ。パソコン上でランダムに選定したのだと説明しても分かってもらえるはずもなく、「組合のために一生懸命働いてきた私が何故選ばれないのか」「もう自分は組合から除名されてしまったのか」と涙目になって訴え出した。これは当たりとか外れとかではなく、そして選ばれたからといって特典があるわけでもなく、むしろとても大変なことなのだと説明しても、「選ばれた者だけが研修を受けられるのではないか」「選ばれなかった者は今後除名されるのだ」とか、憶測が一向に収まらない。


どうしたものかと途方にくれかけたとき、ちょうど、対象リストに載っていた女性2名が既に組合を辞めていることが判明。誤解を解くためにも、補充要員をどのように選ぶのか、代表女性たちにプロセスを見てもらうことにした。
まずはわたしのラップトップに保存していた組合員全員のリストを示し、彼女たちの名前が全員分、一人も漏れずに載っている事を確認させる。自分の名前を画面上に見つけてようやく自分はまだ組合の一員なのだと安心した彼女たちの前で今度は、調査対象にならなかったメンバーの名前を全てノートに書き、一つ一つくじにして混ぜた後、代表に2つ引いてもらう。そしてその場でくじを開き、書かれた名前を読み上げ、2人の名前を新たに調査対象リストに加えた。
ここまで来てようやく、彼女たちは今回の調査対象リストになんの意味も隠されていないことを理解してくれた。


しかし代表メンバーたちは、今ここにいないメンバー達はきっと同じ勘違いをして問題が起きるから、明日早朝に集会を開いて理解を求めたいと慎重に提案した。調査が女性たちの不協和を生んでは本末顛倒なので、わたしたちは即その案に同意し、翌日を待った。早朝、女性リーダーが組合員全員の前で、前日の対象メンバー選定の行程を説明し、安心して調査に協力するように呼びかけてくれ、無事に調査実施に至ったのである。


現場では、思いがけないことがしばしば起こります。調査でさえ、こんな状況なので、今後本格的な研修時期に入ったら、更にいろいろなことに気を配る必要がありそうです。


◇◇◇◇
女性たちの集会で。調査は決して「特別なメンバー」に行われるものではないのだという説明を聞く女性たち。

マンゴーの木の下で。

sayakot2011-02-13

2月8日から、5組合目のベースライン調査に出かけてきた。残るは4組合!


今回訪ねたのはアジスから車で340km、南部諸民族州ウォライタ県フンボ郡の女性組合。この組合を訪ねるのは今回が2度目だが、いつ来ても、地域の人々のおおらかさと温かさにほっとする。地元ウォライタの言葉で「ハイマレー!」と挨拶をすると、子どもから大人まで皆、「ロッ・オー」と笑顔でハグをしながら応えてくれる。この組合は共同農地を持っており、よく手入れされた農地でメイズ、小麦、マンゴー、グアバ、にんじん、唐辛子、桑などが育てられている。農作業は共同で行われ、休憩時間になると皆マンゴーの大きな木の下に集まり、生豆から炭で焙煎したコーヒーを囲んでぺちゃくちゃと楽しげにおしゃべりをする。よく働き、よく笑い、気持ちのよい人たちだ。


滞在期間中、彼女たちは農園の木からもいだばかりの、びっくりするほど甘いマンゴーや、大切なトウモロコシや豆を煮込んだ特性のお粥を惜しげもなく持ってきてくれ、わたしたちの手元にコーヒーが途切れなくあるよう細心の気を遣ってくれた。何も知らなければ、なんと平和で豊かな田舎の生活かと思われるかもしれないが、しかしこの地域は実は、プロジェクトが支援する9組合の中でも、特に厳しい環境に置かれた組合の一つである。年間を通じて乾燥しがちで、雨季でさえ降雨量が不安定なこの地域は、2年前の干ばつでは多くの餓死者をだしている。この地域は最貧国エチオピアの中でも特に「食糧安全保障(food security)」が脆く、多くの住民達が恒常的に政府やNGO、国際機関から食糧援助を受けている。「私たちはあのひどい干ばつの中でも、この農産加工の活動のおかげで、一人も餓死者を出さなかったのよ」と誇らしげに言う彼女たち。それでも、「飢餓」と隣り合わせに生きる人々が、何故こんなに優しい表情ができるのだろうとスタッフに聞いてみると「この地域に生きる人たちは、貧困を神様からの贈り物だと思っているのよ」と返事が返ってきた。


最終日、そんなつもりで出したのではないという彼女達に対し、わたしたちは滞在期間中に食べた大量のマンゴー、コーヒー、お粥の代金を支払った。金銭的な価値には決して変えられない彼女達のおもてなしに対し、心からの感謝を示す一方で、まずはわたしたちが彼女達に、サステイナブルに組合を運営するための考え方を示す必要があると思ったからだ。


もちろんそこに、難しさは常にある。「貧困は神からの贈り物である」という信仰こそ、おそらく、彼女達がこの理不尽な環境の中でも、愛情と謙虚さを持ち続け、互いに助け合い生きてこられた理由だからだ。そんな迷信を信じているからあなたたちはいつまでたっても貧しいのだと、干ばつが村を襲うたびに無力に家族を失うのだと、外部の人間が言うのは簡単かもしれないが、ただ経済合理的なシステムを導入しそれがその信仰にとって代わった先の社会に、彼女達の今の心の豊かさがどれだけ無傷で残されているか。
ただし、子どもに十分に食べさせてやりたい、靴をはかせてやりたい、学校に行かせたい、病気の家族に薬を買ってやりたい、水道や電気が身近にある生活を送りたいーーそうした当たり前の切実な願いを、ノスタルジックな幻想にとらわれすぎる余り見逃してしまうのも、やはり違ううような気がする。どこにバランスを見つけるか、それが開発プロジェクトの最大のジレンマかもしれない。

◇◇
女性グループの共同農地に遊びにきていた少年。マンゴーの木の下で壊れたリヤカーの上にまたがり、アフリカン・ドラムのように叩いて演奏してくれました。

プチ同窓会@アジス

sayakot2011-02-05

私の母校である国連平和大学院(本校コスタリカ)は、研究センターをここアジスアベバに有している。そこでは主にアフリカ地域の平和構築/紛争の研究がなされており、その関係で本校の教授陣や関係者がアジスを訪れることがある。


今回は副学長(エジプト人)Dr.Aがアジスアベバ大学で平和構築に関する調査法の講義を行うために来ており、昨夜はその最終日ということで、アジス在住の平和大卒業生たちによる「囲む会」に出かけてきました。


Dr.Aから直接教わることはほとんどなかったですが、その迫力ある大きな体格とは反対に、知的なユーモア溢れる彼のことを慕う学生はとても多く、会場のイエメン・レストランに集まった卒業生は10名。内訳はエチオピア人7名、ウガンダ人1名、カナダ人1名。エチオピア人の2人を除いて年次が違ったのでわたしにとってはほとんどが初対面だったけれど、エチオピア内ではしっかりと卒業生ネットワークが築かれている様子で、皆お互いよく見知った感じ。彼らの今の所属は、国連、NGO、そして大学で平和構築関係の教鞭をとっている等々で、いわゆる民間企業に勤めている人間が誰もいないのは、この大学の特徴をよく表している。


さて、集まったのは平和学関係者ばかり。しかもDr. Aがエジプト出身ということもあって、話題はもっぱら現在のエジプトの混乱。ムバラク政権がいかに平和的に退陣すべきかについて、皆がそれぞれ持論を展開し、ずいぶん盛り上がっていました。わたし自身は卒業をしてからしばらく「開発」、広い意味での「平和」に関する仕事には携わってきたけれど、紛争に対する平和という意味での分野にはまったく関わってこなかったので、皆の議論を聞きながら、大学院で学んでいた頃の事を懐かしく思い出していました。


それにしても、卒業して2年半が経ち、こうしてアジスアベバにいながらも、いまだに自分がかつて所属したコミュニティの一部であることを感じられる機会があるというのは、素敵なことですね。そんなほっこりした気分になったハナ金の夜でした。

赤土の町で

sayakot2011-01-31

1月20日〜25日まで、アジスアベバから北東へ約560kmのところにあるプロジェクトサイト2箇所に出かけてきました。目的は、プロジェクトが支援するピーナッツ加工女性グループとミルク加工女性グループに対する基礎調査です。


この地域は自然環境という意味でも、文化という意味でも、アジスアベバとはずいぶん異なる様相をしている。まず空気が非常に乾燥していてホコリっぽく、車窓からはロバやヤギに混じってラクダ(夜になるとハイエナも)がゆうゆうと群れをなして歩く光景が目に入る。また人々もソマリ族のイスラム教徒が多いことから、女性はしばしば鮮やかな布で顔や体を覆っており、男性は腰からスカートのような布を巻いているのが特徴的。


中でもピーナッツ加工グループが活動しているバビレ郡は、「チャット」と呼ばれる、覚醒作用のある葉っぱの一大生産地域。「チャット」は、若く新鮮な緑の葉を口に含んでひたすら噛み潰してその汁を吸い、口の中で非常に細かくしてから最後は呑み込んで消費する。空腹感が抑制され、高揚感が得られることから、この地域の農民達は朝一番にチャットを噛み、朝食もとらずにその高揚感と共に農作業に出かけるのが通常らしい。


世界の多くの国では非合法のこのチャット、エチオピアではれっきとした嗜好品(合法)で、アジスアベバでも庶民の男性達の間にはごく一般的。町でも売っているところをよく見かけるけれど、ある程度上層の人々や敬虔なクリスチャンの間では「あいつはチャットばかりやって、何も仕事をしやしない」といった感じで、やや否定的に受けとめられている。


しかし、そんなネガティブなイメージも、一大生産地のこのエリアではまったく別。大人も老人も女も男もヤギも羊も、チャットチャットチャット。。。嘘か本当か、1日でウン百万ブルという額のチャットが取引されるという、とある市場の周辺には、路上に座り込み、無表情に朝摘みチャットを売る農民の女性たちや、チャットの枝葉をぎゅうぎゅうに詰め込んだ大きなサックをトラックに積み込む男たちとその作業を手伝う子ども、ハイになりすぎて一人踊っている老人や、すごい形相で独り言をぶつぶつと言いながら歩く男、チャットの枝を囲んで座り込み、ぼーっと宙を見ている若者グループ、輸送用トラックからこぼれ落ちた残り葉に群がるヤギや羊たちーー別の場所では、奇声をあげすごい勢いで駆けてつけてきた恰幅のいい女性にいきなり抱きつかれ、頬にキスをされるというハプニングもあった。ずいぶんフレンドリーな人だと思ったら、彼女は"out of mind"なのだと誰かにささやかれた。ーー大型トラックが通るたびに舞い上がる赤い土ぼこりの中のその喧噪には、どこか異様なシュールさがあった。それでも、この地域の人々の生活を支えているのは、間違いなくこのチャットなのである。


上物のチャットは1kg 20ブル-30ブルで取引され、 1kg数ブル単位で取引されるのが通常のピーナッツやその他の農作物の値段と比べると、「超」高価。買い付けられたチャットは、アジスアベバやその他の地方都市はもちろん、エチオピアと同様に規制の緩いイエメンやソマリアなどに輸出され、この国の貴重な外貨獲得手段となっている。


しかし不思議なことに、今回の調査で気づいたのは、これらの高価なチャット生産を以てしても、村の農民たちの生活はまったく潤っているように見えないこと。今回、近辺の村にある農家を何戸か訪問して調査を行ったが、家に満足な食糧がなかった月が年に2ヶ月、3ヶ月と続いた家庭が非常に多く、肉の摂取もひと月に1度あればいい方だった。もともと零細農民が人口のほとんどなので、そもそもの所有する農地面積の小ささや、乾燥した気まぐれな気候が影響していることもあるのだろう。現金収入を得るため、村人たちは7km離れた町に自分たちの小さな畑でとれたチャットや野菜を歩いて売りにいく。村は、家事手伝いをするために学校に行っていない子どもたちで溢れていた。


バビレの町で、スタッフと一緒にカフェのテラスでコーヒーを飲んでいると、「ファランジ!ファランジ!(白人)」「チャイナ!チャイナ!」と叫びながら、どこからともなく子どもたちが集まってきた。みな互いに顔を見合わせながら、興味半分、怖さ半分という様子でそれ以上近づくのをためらっている中、“ハロー”とこわばった笑顔で前に進んできたのは、薄汚れた服の少年たち3人組。年は中学生くらいだろうか。思い切って前に出てきたものの、さてどうしよう、そう戸惑っている彼らは、一見悪ガキ風を装っているようだったが、この赤土まみれの荒んだ町にまだ埋もれていない、子どもらしい無邪気さを保っているように見えた。


ふと「君たち、将来の夢はなに?」と、プロジェクトスタッフのS女史を通じて聞いてみた。外国人からの思いがけない質問にびっくりした彼らは、最初お互いの顔をきょとんと見合わせていたが、やがて一人が恥ずかしそうに、「お医者さん」と答えた。続いて二人も照れた様子で「パイロット」と答えた。


今度はわたしが、新鮮な驚きで胸がいっぱいになる番だった。わたしも小さい頃、お医者さんになりたいと答えていた時期があった。そして、この少年たちは一体いつ飛行機なんて見たのだろう?
どんなところに生まれても、子どもには夢を見る力があるーー。
自分で無責任な質問を投げておきながら、そんな事に心が揺さぶられた。


「じゃあその夢をかなえるために、あんたたちこんなところで油を売ってないで、家でも学校でもいっぱい勉強しなきゃだめよ。」博士号を持っているS女史が、まるで担任教師のように少年たちにそう言い渡すと、彼らは「今日は土曜日だから学校はないんだよ!」と最初すねたように言い返したが、そのあと「うん、わかったよ。」と素直に答え直した。


と、その直後。
こらぁーーー!!商売の邪魔だ、お前ら、さっさとあっちに行けっ!!と、カフェの店員が少年達に猛烈な剣幕で怒鳴り声をあげた。別にいいのに、と静止しようとするわたしたちにまるで耳を貸さない店員は、「パイロットになりたい」と言っていた少年の足を蹴り付け、蜂の子を散らすように逃げる周囲の子どもたちに石を投げつけた。逃げながら、恨めしそうに店員を振り返った少年たちの眼差しから、先ほどの輝きは消えていた。


どうかこの町に、彼らの夢を守り育てる場所がありますように。環境に負けず強く生きてほしいと、心から願わずにはいられない出来事だった。

◇◇
写真は、町で妙に懐いてくれた兄弟。ちょっとぼんやりした弟を守るようにいつもぴったりとくっついて、弟想いの素敵なお兄ちゃんでした。

外務副大臣との昼食会にて。

sayakot2011-01-29

松本外務副大臣エチオピアに訪問中とのことで、昨日は副大臣を交えての昼食会@日本大使館に招待いただきました。ご本人に伺うのもナンでしたので、事前に調べた外務省ホームページによれば、今回の副大臣エチオピアでのミッションは、「アフリカ連合AU)委員長と日AU政策協議を行うほか,第18回アフリカ連合AU)閣僚執行理事会に出席し,我が国の対アフリカ外交の具体的な取組を説明するとともに,アフリカ各国の出席者及びエチオピア政府要人と会談を行う」ことだったそうです。


早速話は変わりますが、今回のようなAUの会合に限らず、この国では政治系のイベント事がある際にはしばしば、アジス内の主要道路が突然閉鎖されたり、路上の警察官(青い迷彩服を着て大きな銃を持っているのでなかなか迫力あり)の数がぐっと増えて気まぐれなセキュリティ・チェックに遭遇したり、携帯電話やネットが極端に通じにくくなったりと、いろいろと生活に影響を受けます。ここ数日のオフィスのインターネットの不安定さといったら、仕事にならないくらい。


やや大げさにも思えるけれど、実際95年には今話題のエジプトのムバラク大統領の暗殺未遂事件がここアジスアベバで起きており、そうした意味ではたしかにAUのホスト国として、何か起きれば国家の威信に関わるのでしょう。でもそれならそれで、もっと徹底的に行えばいいのに、そのあたりが緩いのはなんともエチオピア的。例えば同僚A氏の滞在先のホテルでは、ここ数日になって警察官が数人体制で、入口で滞在客の出入りをチェックしているとのこと。しかし彼らはなぜかホテルの駐車場に通じるマイナーな入口側だけに張り付き、道路に面した主要入口の客の出入りについてはノー・ケアだそう。
また、ヒルトンホテルでは敷地に車で入る際には、毎回ガードマンがドアを一度開け、内部の確認をするけれど、特にIDを求められるわけでもなく、トランクを開けられるわけでもなく、「ヒルトンにようこそ」と言われて終了。入口に別途設けられている所持品チェックでは、金属探知機が鳴ってもなりっぱなし、誰も気に留めない有様。
とりあえず、今のこの時期だけは、各国VIPが泊まっているシェラトン近辺に近づくのはやめておいたほうが無難かも。


さて話を戻すと、昼食会は副大臣、大使、公使のほか、JICAエチオピア事務所所長、JICA専門家2名、エチオピア唯一の日本企業である在エチオピアM商事のK社長、すっかり顔馴染みのWFP(国連世界食糧計画)のKさん、青年海外協力隊の若者2名、シニアボランティアの方1名、そしてエチオピア日本人社会の有名人であるプロのエチオピアン・ダンサーBさんなど、計15名ほどのこじんまりした集まりでした。カラリと高く青く晴れ上がった空の下、お刺身や肉じゃが、炊き込みご飯等々、美味しい和食を(またしても)囲み、両国の経済・外交政策の話題から草の根の末端の活動の話まで花が咲き、密度の濃い時間を過ごしました。


話題の一つにあがったのは、エチオピア道路建設や情報インフラ構築に目覚ましい進出を遂げている中国のプレゼンスの高さ(日本人が集まるときのお決まりの話題。でもそれくらい、本当にアフリカでの中国の存在感は大きい)や、日本とエチオピアのつながり―-―例えば1960年にはご結婚まもない現天皇陛下ご夫妻がエチオピアを訪問されていることとか、エチオピア最後の皇帝であるハイレセラシエ皇帝は大変な親日家で、1956 年の訪日の際には日本の戦後復興支援として孤児院への寄付を申し出たこととか(この逆転の関係、今では考えられないけれど、そうした時代もあったのだなあと思うと、エチオピアが何故、今のような最貧国にまで落ちてしまったのか考えさせられてしまう)-等々。


また、何故エチオピアには自転車が少ないのかーーエコだし、燃料を食わないのに何故?ーーという、アジス市内を観察された副大臣からの疑問については、部品の不足、工場の不在、盗難の問題、空気が薄くアップダウンの激しい地形等々の答えがあがりました。この話題、先日出張に出かけた際、畑でとれた農作物を売るために村から7km離れた町まで日々行き来しなければいけない農村女性たちの苦労をこの目で見てきたばかりだったので、個人的にはかなり関心があるトピックでした◎


さて今回の会を通じ気づかされたのは、日本とエチオピアという国家間の関係や、外交・経済政策の対象としてのエチオピアという視点が、自分の中ですっかり抜け落ちてしまったいたなあということ。目の前の草の根プロジェクトに力を注ぐ一方で、そこから一歩引いたマクロな視点も持っておかないと、世の中を動かしている大きな力の流れが分からなくなるなと、気持ちの引き締まる思いがした次第。もっと幅広い視点を持たなければなとそんな決意を新たにした1日でした。


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写真は、1/20-1/25まで出かけた出張のときのもの。
こんなでこぼこの赤い土の続く7kmの道のりを、女性達は歩いて町まで野菜を売りにいきます。こんな田舎の農村でも、現金収入なしには生きていくことのできない人々の生活です。

新春の。

sayakot2011-01-16

昨日は在エチオピア日本大使公邸での「新春賀詞交換会」に出席。昨年秋口に赴任された岸野新大使に、エチオピア在住の全日本人(約200名だとか)がお招きにあずかりました◎


大使公邸と我が家は徒歩4分の距離にあるので、会場には徒歩で。ロバと羊の行き交う砂利まじりの小道には、「スマートカジュアル」というドレスコードに併せてセレクトしたややキレイ目の服(黒ワンピース+ぴたっとしたパンツ+黒パンプス)はちょっと浮き気味だったかも。


開始時刻の12時30分ちょうどに到着したところ、会場である公邸のお庭にはすでに大勢の人。1/3くらいの方はもうなんとなく顔や名前が分かるようになってきた気がするけれど、一方で初めてお会いするのは大体、青年海外協力隊やシニアボランティアとして普段は地方をベースに活動されている方達や、JICAの専門家として短期でいらしている方々。この国には日本企業が三菱商事一社しかないこともあり、在エチオピアの日本人のほとんどは、大使館を除くと開発関係者とその家族。その特徴ゆえか、日本人コミュニティがこうして一堂に会すると、見ず知らずでも互いを労いたくなるようなある種の一体感があるような気がするのが不思議。


大使のご挨拶の後はお待ちかねのお料理群。テーブルにズラリと並んだお正月料理の数々は壮観でした。お刺身、バラチラシ、数の子、栗きんとん、かまぼこ、黒豆、筑前煮、おでん、お雑煮etc…. 日本に帰ったばかりのわたしでさえ、エチオピアでは考えられない鮮度の魚や、ほとんど手に入らない大根、れんこん、ゴボウ等々をふんだんに使った料理に思わず唸りました。公邸料理人は日本人でなくなんとタイ人の方だそうですが、オーブンレンジで焼いたお餅を、もくもくと一つ一つ丁寧にお雑煮に盛りつける姿に、職人魂を感じました。それにしても、年末年始に日本に帰れなかった方たちの感激はどれほどだったかと想像します。


大使にご挨拶し、料理もワインも満喫し、友人知人達と年末年始のアップデートや仕事関係のご挨拶をし、2時間ながらとても楽しかったです。日頃イベント事がとにかく少ないエチオピア生活なので、いつもより少しだけ綺麗な服を着て、美味しい和食を囲んで日本人同士で集まるこうした機会というのは、わたしだけでなく多くのエチオピア在住邦人にとって特別なイベントだったのではないでしょうか。皆心なしか名残惜しそうに帰路につきました。


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写真を撮り忘れてしまったので、パリからの写真を1枚。

Pettit パリ・レポート&謹賀新年

sayakot2011-01-11

新年明けまして、おめでとうございます。


昨日、日本での約2週間半の休暇を終えて、アジスアベバに戻って来ました。


帰国中は、日本を出てから6ヶ月ぶりに髪を切りにいったり、家族でディナーに出かけたり、エチオピアで壊れてしまった愛用ラップトップを修理に出してApple Storeのキメの細かいサービスに感激したり、忘年会に顔を出したり、One-dayコンタクトレンズのストックを買い込んだり、エチオピアのスタッフに頼まれていた電化製品の買い出しに行ったり、セール品の買い物に走ったり、期待していた「ノルウェイの森」を観に出かけたり(がっかり、、、)、懐かしい友人達とお茶をしたり、(もちろん)飲みにいったり、初詣に出かけたり、謎の神経痛で海外渡航専門クリニックに駆け込んだりーー盛り沢山にいろいろとあったけれど、中でも、神戸で祖母と2人きり、本当にのんびりと過ごした大晦日と元旦がとても味わい深かったです◎


ところで、今回は日本→パリ→アジスアベバというルートで帰って来ました。これまで、「ヨーロッパなんてつまらない」と大した経験もないのにそう頑なに信じてきたのだけれど、今回たったの2日、街を練り歩いてみただけで、結局「うーん、さすがはパリ。」と唸ってしまいました。。。古い歴史を感じさせる街並は、息をしているかのように今も人々の日常に生きているし、バゲットを片手に颯爽と歩くパリジェンヌのスタイルや、ふらっと立ち寄った街角のレストランの洗練されたメニュー、店々を飾るかわいらしいオーナメントのさりげなさにも、ちょっとした感動がありました。普通の八百屋さんでさえ(失礼)、ファッション雑誌の背景を切り取ったように映ったりして、いやはやびっくり。そうそう、日本で食べ忘れた生牡蠣も、ここできちんと取り返し、十二分に満喫しました。


ステレオタイプにちょっとスノッブな感じのフレンチ ピープルに遭遇したりもしましたが、エレガントに親切な人たちとの出会いもありました。また何より、予想外にアフリカ系やアジア系、中東系の人々の入り交じったその雑多な街の感じは、―――現実には移民排斥等いろいろ問題はあるのだろうけれど―――この街を更に魅力的なものにしているように感じました。


エチオピアに最初に来たときから持って来ていたフランス語文法の本、そろそろ1ページ目を開いてみようかな。


○○○
さて、エチオピアは海外からの電化製品や貴金属類の持ち込みに対する規制が異常に厳しいので、昨日ようやく飛行機がアジスアベバの空港に降り立ったときは実はずいぶんひやひやしていました。というのもスーツケースの中に、事務所スタッフや大家氏に頼まれていたビデオカメラやデジカメや時計がもろもろ入っていたからなのですが、結局、何事もなく税関を通過することができました◎。


2週間半ぶりのアジスの空気はひんやりと冷たく、パリからの約8時間のフライトで疲れた体に心地よく感じられました。早朝にも関わらず空港には事務所のドライバーが来てくれており、私の荷物を引き受けながら、“Welcome back! Your family, friends ok?”と笑顔で迎えてくれました。そして自宅の門では狂喜乱舞した2匹の愛犬たちに迎えられ、ああ「戻って」来たんだなといよいよ実感。
そして続けて、大きなサプライズが。帰宅と同時に門番氏が手渡してくれたのは、去年誕生日に失くしたピアスの片方。母から送られた誕生日プレゼントを、あろうことか受け取ったその日に落とし、どん底の気持ちで家中、近所中探しまわったピアス。それが、庭の片隅の芝生からひょっこり出て来たらしい。門番氏には何度も何度も御礼を言いました。それにしても、なにやら幸先のいい予感◎。


オフィスに向かう途中、車道すれすれにロバがよたよたと歩く、もはや見慣れた光景を眺めながら、2011年はどんな年になるだろうかとぼんやりと想像。そんなエチオピアでの新たな1年の始まりでした。


今年も引き続き、何卒どうぞよろしくお願いいたします。