sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

エチオピアン・カーペットとHope for the Blind

sayakot2010-11-13

2ヶ月半前、今の家に入居する契約を結んだとき、大家氏が約束してくれたこと。それは、リビング用カーペットの購入だった。


1ヶ月半前、カーペットを一緒に選ぼうと週末、大家氏が連れ出してくれた。どういう物が欲しいという話はほとんどしていなかったのだけれど、どうやら最近アジスでも増えてきた欧米風の家具屋に向かっている様子だったので、ずうずうしいかなと思いつつ、こちらの要望を伝えてみる。「えーと、できれば西洋風の既製品ではなくて、エチオピアの伝統的な感じがいいのだけれど、、、。」すると大家氏はそのリクエストに意外なほど喜んでくれた。私も本当はエチオピアのものが好きなんだ、でも外国人の君がそう言ってくれるとは思わなかった、と。


そんなわけで向かった先は、観光客の集まるお土産屋通り。「エチオピア式絨毯屋」というのはあまりないらしい。店先で雑貨などと共に並ぶエチオピアの伝統的な絨毯は、少し粗い肌触りをして白(といっても純白という感じではなく)〜ベージュ色が基本のトーン。素材本来の風合いを生かした、田舎っぽい素朴さが魅力。ライオンや鳥をモチーフにしたわたし好みの楽しげなデザインから、エチオピアらしい十字架をモチーフにした落ち着いたデザインまで、様々な種類があってどれにしようかと目移りしたが、問題が一つ。羊の匂いがキツいのだ。匂いはどれくらい続くものなのか、いつかはなくなるものなのか、店員に聞いても「さあ、、、?」という返事。


さんざん悩んだけれど、これはさすがに家に置けない。エチオピア式絨毯はやっぱり無理かも、そう大家氏に言ったら、「これは製造時の処理の問題なんだ。羊の毛を糸に紡ぐときに石けんによく浸けて、その後完全に乾かせば、こんな匂いはしないものさ」と。ずいぶん詳しいなと感心したら、大家氏はその昔、地方の農民の作る羊毛製品の品質改善プロジェクトに参画していていたことがあるのだとか。一軒くらいは匂いのない絨毯を置いている店があるのでは、そう期待して2人で通りの全ての店の絨毯の匂いを嗅ぎまわってチェックしたが、恐らくどの店も同じ場所から卸しているのだろう、結果は全部×。


諦めの早いわたしは、既に普通の絨毯にしようかと考え始めていたのだが、大家氏はすっかり火が付いてしまったらしい。製造元にきちんと脱臭処理させた素材で作るようにオーダーメードしよう、と言って、渋る店員から卸元の住所を聞き出し、その足でその場所に2人で向かった。
週末だったせいか卸事務所は閉まっていて、うーん、無駄足だったか、、、と思いかけたところ、大家氏は近隣の住民に事務所の電話番号聞き出し、僕が平日に処理方法を指示して注文しておくから、なに、1ヶ月後には出来ているよ、とにっこり。大家氏様々。


そしてかれこれ1ヶ月半。その後まったく音沙汰なしだったのだが、昨日、仕事中に大家氏から電話がある。製造元から連絡があって、ほぼ仕上がってきたそうだから今から進捗を見に行かないか、と。急な呼び出しだったものの、興味の方が大きくて、ランチライムを使ってオフィスを抜け出す。製造元のセンターでは、担当の若い女性がわたしたち2人を作業場へ案内してくれた。薄暗い部屋の中に3台あった大きな織機のうち、一番手前の織機で織られていたのが、わたしのカーペット。中年の女性の手で器用に上品なクロスのモチーフが織りあげられている。既に織り上がった部分は、邪魔にならないようにロールアップされていたので、現時点でどれくらいの長さになっているのかよくわからなかったが、あと2週間ほどで完成だとか。


ふと、作業している女性の向かいで手伝っている男性に目を向けると、彼の目が見えていないことに気づく。それでも器用に横糸を織機に通し、女性とうまく呼吸を合わせている。そしてわたしのすぐ後ろでも、目の見えない男性2人がコーヒーを飲みながら休憩している。淡々と作業をしているように見えていた中年の女性も、どうやら体が不自由なようだった。


それまでちっとも気づかなかったのだが、このセンターは、障害者による作業施設だったのだ。施設は、毛の洗浄、糸紡ぎ、毛織り等、プロセスに寄って分かれており、それぞれのエリアに10名-15名の様々なハンディキャップを持った老若男女が働いていた。羊毛製品以外にも、ブラシやモップ、家具などの制作作業場もあり、現在約80名が雇用されているのだとか。


建物にあった張り紙によると、センターは1973年に、ドイツのキリスト教系の団体のサポートとエチオピア正教会の協力によって始まった。最初は全盲者に対する点字教育と職業訓練プログラム “Hope for the Blind”として始まったが、やがて他の体の障害をもった障害者も受け入れる事で、全盲者だけでは難しい作業を補い合い、伝統的なカーペットや質の高い掃除用のブラシなどの日用品を制作する集団として、自立した運営ができるようになるまでに至った。


アジスを歩いていると、あらゆる場所で物乞いに遭遇する。乳児を連れた若い女性、家族連れ、老人。そしてその中に、交通事故や恐らく幼少期の病気などで障害を持った人々も非常に多いことに否応なく気づかされる。目の見えない人、手足がない人、足が異常に膨れ上がった人、顔や体に大きな腫瘍を抱えた人。先日、両手にぼろぼろのプラスチックのサンダルをはめ、泥の水たまりを這いつくばって必死に越えようとする両足のない若者を見たときには、胸がしめつけられる思いがした。


5体満足の若者でさえ、自分で生活できるだけの雇用を得る事が難しい最貧国のこの国で、障害を持った人々が自立して生きる機会というのは果たしてどれだけあるのか。アジスの街のこうした光景は、生まれた場所によって人生の選択肢が奪われてしまうことの不公平さを、最も残酷に見せつける。彼らが全員「哀れ」だとそう決めつけてしまうのは、わたしのエゴなのかもしれないが、死ぬまで物乞いをするほか生きていく術のない人生というのは一体どういうものなのか、わたしにはどうしても想像できない。


帰りがけ、建物に掲げられた “Hope for the Blind and the Handicapped Rehabilitation Association”という施設の看板を見て、数十年の間この建物が人々の光となり、その心に取り戻してきたものに想いを巡らし、思わず胸が熱くなった。


カーペットの完成が、心から待ち遠しい。