sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

エチオピアの風景:家族の結びつき

sayakot2010-07-22

SAAエチオピア・オフィスのディレクターA博士のお母様が昨日亡くなり、タンザニア人T女史とフィリピン人のL女史と一緒に、夕方、A博士の自宅を弔問。家の中はもちろん、庭にまで椅子が並べられ、親戚か近隣の住人たちかが集まっていた。弔問に訪れた人々はA博士に弔問の言葉を述べ、適当に場所を見つけて部屋の中や外に座り、隣の者と会話を始める。若い親戚の女性たちが、お茶やコーヒー、スナックをふるまう。私たちはリビングの中心のソファに導かれ、1時間ほどA博士と、お母様のお話やエチオピアの葬儀にかかる風習などの話を聞く。遺族は埋葬の翌日から3日間、自宅で喪に服し、終日訪れる弔問客をもてなすのが習慣だとのこと。


実は昨日、その訃報を受け、オフィススタッフ全員で、近くのエチオピア正教会隣の埋葬先に参列したのだが、そのとき会ったよりはA博士はだいぶ落ち着きを取り戻したように見え、穏やかな表情にほっとした。エチオピアに来て早々、現地流のお葬式を経験するとは思わなかったが、昨日の埋葬場所では、棺が運ばれてくると、伝統的な白のエチオピアドレスに白いスカーフで髪を覆った女性たちや男性たちが集団で泣き叫んでいた。叫び声はそれが地中に埋葬されるまでの間続き、やがて白の布で体をまとった司祭が祈りのようなものを捧げると、急に静まり返った。
それにしても、亡くなったその日に遺体を埋葬するというのは、遺族にとって心の整理をつけるのも大変なのではないかと思うのだが、この国では、こうした自宅での集まりを通じ、故人を忍ぶのだろう。(地域差はいろいろあると思いますが)


日が暮れた後も弔問客は次々に訪れ、1時間もの間リビングの中心で喪主のA博士を独占してしまったわたしたちは、そろそろ引き上げようと腰をあげたところ、これから夕食が出るからと引き留められる。庭先に並べられたテーブルには、山盛りのインジェラ(テフという穀物の粉を発酵させて作った酸っぱいナンのようなもの)と、青唐辛子の効いたスパイシーな肉煮込み、ホームメードというチーズ、そして、噂に聞いていたナマの牛肉をたたいて香辛料とバターを混ぜ込んだクットフォーという食べ物が並んでいた。このクットフォーは特別なイベントのときにのみ出されるご馳走で、以前から興味はあったもののなかなか機会がなく。親類らしい中年の男性が嬉しそうに、さあご馳走だ、食べてみろ食べてみろと身振りする。いや、この子には止めておいた方がいいと思うよとA博士は彼を静止したけれども、せっかくの機会なので3口分ほどいただくことに。氏はとても心配そうな顔をしていたけれど。お味は、、、ユッケみたいで普通に美味しかったです。後から、わたしたちに気を使ってくれた博士の奥様がそれを炒めたものを出してくれ、そちらは更に美味でした。奥様は、他の上流知的層のエチオピア人同様、控えめだけれども滑らかな英語でわたしたちをもてなしてくれ、最後は夫婦でわたしたちを送り出してくれた。


本当のところ、これまでA博士とは、同じ組織に所属しながらも、わたしがRegional Office (SAAの展開国であるエチオピアウガンダ、マリ、ナイジェリアの全体統括をする事務所)でほとんどの時間を過ごすのに対し、彼はエチオピア国内のプロジェクトを実際に実施するCountry Officeにいる関係で(2つの事務所は車で20分くらいの距離)、あまり接点がなかった。更に、農業省に強いコネクションを持ち、知的で威厳のある彼に、わたしはどこか勝手に近付き難さを感じていたのだけれども、今回、家族の結びつきを大切にするエチオピアの伝統を重んじる家庭人としての氏に触れ、また、遠くアメリカの大学で医学を勉強する娘さんについて誇らしく語る様子に、氏のことを身近に感じられるようになった。優秀な人材に対し雇用の機会も待遇も限られているエチオピアでは、頭脳流出が深刻な問題となっているのだけれども、それでもあの子は国のために働きたいと言ってくれるんだと語るA氏の、穏やかで優しい眼差しが印象に残っている。