sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

友人F 〜GIDと平和学〜 (前編)

sayakot2008-09-08

少し日が経ってしまいましたが、先月、ほぼ10年ブリに果たした、中高時代のある友人との再会について、少し。



友人の名前は、杉山文野。2年前、「彼」が『ダブルハッピネス』という、自身が性同一性障害GID: Gender Identity Disorder)であることを「カミングアウト」した、センセーショナルな本を講談社から出版したのは、わたしがちょうど大学を卒業し、社会人になったばかりの頃だった。読売ランドのすぐ近くにある私立女子校で同窓生だった「彼」が、実はGIDであったという事実は、新聞か雑誌に掲載された書評で、この時初めて知ったのだけれど、不思議なほど、大きな驚きはなかったし、中学高校時代から体育会系でいつも凛々しく爽やかだった彼による、ある種の「告白本」が、好意的な意味で読者から大きな反響を得ているというのも、実に納得で、久しぶりに聞いたその名前に、ただ懐かしく、嬉しい気持ちになったのを覚えている。


思い返してみると、わが高校で、フミノは、ちょっとした存在だった。女子が女子に対して恋心にも似た憧れを抱く、宝塚的あの独特の世界は、女子校経験のある方なら分かっていただけるかと思うのだが、短髪で筋肉質で、見た目も性格も当時から「男前」だったフミノには、学年を超えて校内に「ファン」が存在し、フミノが毎年バレンタインデーになると紙袋いっぱいのチョコをもらっていたのはあまりに有名な話だった。実のところ、フミノと私は、中学時代に剣道部の同期だった、という以外、クラスが一緒になるわけでもなく、ほとんど接点はなく、また、フミノは当時、女子フェンシング界の有望選手として注目されていたから、フェンシングに集中するためにその後部活を辞めてしまってからは、顔を合わせれば挨拶を交わす程度の関係に過ぎなかった。とはいっても、本当のところは、優等生キャラで「超フツー」だったわたしと違い、フミノは学校の有名人だったから、その後も、わたしの方が一方的に親近感を持っていた、というのはあるかもしれないが。


さて。新聞でフミノのことを知ってから、数ヶ月。フミノが出したという本に、興味がなかったといえばウソになるが、初めて実物を、書店で手に取ったのは、勤めていた会社の新人研修の一環で、飛び込み営業していた時のこと。次のアポまで時間がだいぶあったので、息抜きに近くにあった本屋に入ったところでふとフミノのことを思い出し、気がつけばその場で一気に読んでいた(立ち読みだけして、本を買わなかったことを、本人には今だに恨みがましく怒られているが)。本には、よく聞いた同窓生の名前が何人も登場し、モノゴコロついた頃から、「女体の着ぐるみ」である、としか思えなかったという自身の体のこと、初めてのセックスのこと、中学・高校時代、周りにちやほやされる中で、内心はどれほど自分の性に、アイデンティティに、強烈な違和感を持ち続け、一時は死を意識するほど苦しんでいたかまで、赤裸々に綴られていた。


わたしの中では学園のちょっとしたアイドルであったフミノが、内側にそれほど深い悩みを抱えていたことは、正直意外だった。だが、本を読み終えて、単純に、彼が様々な葛藤を経て今、自身のアイデンティティに正面から向き合い、社会に対するメッセージとして『ダブルハッピネス』の出版を決意したことは、ある意味でとても彼らしい、潔い判断のように感じた。同時に、彼は大変な道を選んだものだなとも改めて思った。


例えばわたしにとって、自分が「女」であることは、自分のアイデンティティのほんの一要素にすぎない(と、思っている)。無頓着な性格からか、「男」みたいな性格だねと言われることはしょっちゅうだし、実際、自分が「女」であることを完全に忘れることもある。そしてそれでも、わたしの場合、自分が自分であることに何の揺らぎも起こらない。だがフミノの場合、自分はGIDだと社会に表明することで、望むと望まざるとに関わらず、それを自ら、自身のもっとも目立つ「ラベル」にしてしまいかねないのではないか。そうてそうしたラベルが、もっと大きな壁になって立ちはだかることはないだろうか――? 例えばフミノがフェンシング界の一流選手であったこと、「きれいな街は、人の心もきれいにする」をコンセプトに生まれた「グリーンバード」というNPOの中心的な役割を担っていること、歌舞伎町に信じられないような広範なネットワークを持っていること、ユニークで熱い仲間にいつも囲まれていること、情に厚くて、実は涙もろくて、そして意外に几帳面であることetc….読者は、世間は、そうしたフミノの一面を、志を、すべてそのままに受容できるほど、まだ成熟していないのではないか―ー?


一方で、そんなことはフミノ自身が一番分かっていて、そうした可能性を全て引き受けた上で、それでもなお、自分の描くもっと大きな絵を実現するために、今回の出版があるのだろう、とも思った。その絵が一体なんなのか、当時のわたしにはイマイチよく想像がつかなかったのだが、是非頑張ってほしいものだなあ、そんなことを一人勝手に思いながら、わたしは本屋を出た。


その後も、 セクシュアル・マイノリティーに対する理解の浸透のために精力的な活動を行うフミノの活躍は、メディアを通じてしばしば目にしたり耳にしたりした。そしてそのたび、わたしは相変わらず嬉しい気持ちになったが、かといって、こちらからわざわざ連絡をとって、自分の「応援メッセージ」を伝えたいとは思わなかった。それをするにはあまりにミーハーな気がしたし、彼の周りには、きっといい仲間が沢山いるだろうことも分かっていたから、その必要も特にないと思っていたのだ。



フミノとの接点を、自分が(勝手に)強く感じるようになったのは、昨年の11月頃、共通の友人のSNSを通じて、彼のブログを読むようになってからのことだった。それはちょうど、わたしがコスタリカのキャンパスで、「平和学」というだだっ広い学問領域への航海を始めた時期だった。「紛争」の予防やマネジメントの仕方、「平和」の構築方法など、あまりにストレートすぎて、時には自分でも思わずおいおいと思ってしまうようなテーマを、正面から考え、議論する日々の中で、わたしはふと、民族的・宗教的な差異が政治化することで生じる紛争や、途上国の構造的な貧困問題に取り組む上で必要な、社会基盤と人々のメンタリティというものが、フミノが問いかける、例えば国内のマイノリティーに対して寛容でない日本社会で欠落しているものと、なんら変わりないということに、ハッとさせられたのだった。


自分はこれまで、「自分の領域」は、「途上国や紛争地域で起きている出来事を、日本社会とつなげる」こと、「国内のセクシュアル・マイノリティーに関するイシューと日本社会をつなげる」ことは、「フミノの領域」と、勝手な境界線を作っていたけれど、結局それは、「役割分担」という名の、「当事者意識の欠如」と単なる「無関心」だったのではないか、と。


告白してしまうと、わたしはこれまで、日本の中で取りざたされてきた、モロモロの社会問題について――例えばセクシャル・マイノリティーのこと、障害者のこと、部落のこと、沖縄のこと、アイヌのこと、ホームレスのこと、在日のこと、アジアや中東からの外国人労働者のこと、いじめのこと――に、あまり大きな関心を払ってこなかった。端的に言えば、生と死が隣り合わせに存在する、極限の貧困地域や紛争地域のそれと比べれば、一応の民主化と経済発展を遂げた日本で起きている出来事が、それほど重要な問題だと思えなかったのだ。だから、TVのニュースや新聞などで、国内のそうしたネガティブなニュースを聞いても、その場限りで心を痛めることはあっても、本当の意味で問題意識を持つことはなかった。たぶん2年前、日本でフミノの本を初めて立ち読みしたときも、結局のところ、そうした印象しか持たなかったのだと思う。本当に情けない話ではあるのだけれど。


だが、ここでようやく気付いたのは、差異や多様性を受容する、懐の深い社会というのは、異なる民族や宗教、文化という大きな枠で組くられた集団間だけでなくて、それこそ、日本国内のGIDへの認知や理解の低さとか、学校や職場でのイジメだとかに象徴される、「自分とは異質なもの」に対する、あらゆるネガティブな認知、態度、行動に当てはまるべきものだということ。わたしはこれまで、このブログで、日本の外の出来事に対する日本社会の無関心さというものをしばしば取り上げてきたけれど、結局、国内外を問わず、全ての問題の根源はつながっているのだ――と。


この時初めて強く、フミノと再会してみたい、そう思った。 そしてブログを見たら、フミノがイギリスに語学留学していること、『ダブル・八ッピネス』の印税を使って、世界一人旅を計画していることを知り、もしかしたらコスタリカで会うこともあるかもしれない、と思って、ついに自分から連絡することを決めたのだった。突然の連絡にフミノは驚いた様子だったけれど、お互い海外生活であるということや、その後フミノもわたしのブログを読みこんでくれたこともあって、いつか一緒に飲みたいものだねということになったのである。


そして、このファースト・コンタクトから9ヶ月遅れて、ついに再会が実現したのが、先月だった。
、、、少し長くなりそうなので、続きは、次回へ。



●●● 写真は、フミノと友人たちと出かけたハロン湾にて。 世界遺産というにはあまりにアミューズメントパーク調。。。