sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

TRAUMAが癒えるとき。 

sayakot2008-04-13

現在受講中の「平和心理学」。
平和学にそんな領域が存在することを、実は今回初めて知った。


心理学のバックグラウンドのないわたしは当初、「平和」という、ひどく漠然とした、それでいてとてつもなく複雑なこの構造物と、個人の「心情」との関係が、どれだけ一つの学問領域として価値を持ち得るのか、あまりピンとこなかったのだが、授業が始まって少し経ってから、「平和心理学」における「心理」とは、実際は、特定の社会構造の中で形成される、個人や集団のアイデンティティに関する議論と密接に結びついていて、思ったよりもずっとダイナミックな領域であることが分かってきた。


それは例えば、ある国のアンバランスな社会構造が、個人や集団のアイデンティティ形成に与える影響や、逆に、そうしたアイデンティティが、コンフリクトの発生あるいは終結に果たす役割を模索していく作業だったりする。そこでは当然、文脈(コンテクスト)が重要になってくるので、授業は自然と、政治経済や社会学に関連した議論が多くなる。


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さて。
授業が始まってから数日して、隣に座っていたフィリピン人の友人が、耳元で教えてくれた。


「ティナは、マルコス独裁政権時代から、知る人ぞ知る、人権活動家(Human rights activist)だったのだよ」と。


平和学の領域に立つ教育者たちは、現場経験豊富なことが多く(というより、そうした人々が教員として招かれることが多い)、これまでも、例えばアフリカで紛争調停役を担っていた国連関係者だとか、NGO職員だとか、大使だとかいった実務家から学ぶ機会にはずいぶん恵まれてきた。だから今回、目の前で講義をする、フィリピン人の少し神経質そうな初老の女性が、人権弾圧で悪名高いマルコス政権下でアクティビストだったのだと言われても、正直、ふーん、という印象しかなかった。


それが先日。
「政治的トラウマと治癒」の講義が終わった後、ティナは、突然、昼食後の午後の授業を自由参加にするとアナウンスした。そして、午後は、マルコス時代の彼女の体験をシェアする場にすること、わたしたち学生にはもしかしたら強烈過ぎる内容かもしれないこと、彼女自身、話す過程でどのようになってしまうか分からないことを、神妙な面持ちで伝えた。


それは、わたしにとって、ある意味で絶好のタイミングだった。実はちょうど、彼女を夕食か何かに招待したいなと考えていた矢先だったからだ。前述の通り、ティナは一見、感情の起伏をあまり表に表さない、いかにも重鎮という感じのベテラン教授で、彼女が過去に発表した論文は、どれも理路整然していて非常に分かりやすい。だが不思議なことに、彼女の文章を読むたびに、わたしは、その背後にある強烈な「感情」の存在を感じずにはいられず、それが一体何なのかずっと気になっていた。そして、ロジカルな彼女の文章を、一つのストーリーとしてつなぐ、「祈り」のように切実な「何か」の正体が、彼女の「アクティビスト」としての過去に関係していることは、その頃までに、ほぼ確信に変わっていた。


昼食後の教室には、ほぼ全員が戻ってきていた。
そして、ティナのストーリーが始まった。


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ティナの夫は、反政府地下組織のリーダーだった。
そして一人息子が生まれてすぐ、夫は解放運動の計画を練るために、潜伏活動を開始する。ティナは幼い息子と地上に残ることを選択するが、それは必ずしも安全な生活を意味したわけではなかった。大学で心理学を教える傍ら、彼女は学生のデモ活動やアクティビストの地下活動を地上から支援し、逮捕・拘留・拷問・釈放を繰り返す夫を支え続けた。情報部のエージェントにつけまわされることは日常茶飯事で、家を襲撃されたことが2度あった。弾圧が最も激しい時期には、フィリピン南部のミンダナオ島にまで避難した。


政治的暴力の特徴は、必ずしも直接な暴力を伴わないことにある。
マルコスは、「恐怖」によって、人々を支配することに成功したが、反体制の闘士たちは、自らの感情を抑圧し、「鋼」にすることで、そうした「恐怖」と向き合った。彼らの規律の中では、空腹や疲労を感じることは禁じられ、愛情や優しさといった感情を持つことや過去を回想することは、弱さにつながるとして、「正しくない」こととされた。


そうした生活は、ティナの心を蝕んだ。家でも職場でも、いつも誰かに監視されているような恐怖と隣りあわせだった。真夜中に激しい動機と汗で目が覚め、果たして自身が正確に現実を把握しているのか、判断を失いそうになることもしばしばだった。抑えきれなくなった不安をノートに書いては、誰にも見つからないよう、粉々にちぎって捨てた。


そして1986年。
「ピープルズ・パワー」と呼ばれたEDSA革命。独裁政権は終焉を迎える。
人々は通りに溢れ、喜びに狂喜した。
夫は釈放され、地方政府の要職に就いた。


だが、3年後。
「いろいろな理由」で、結婚生活は崩壊。
夫は別の女性と結婚した。


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今でも彼女は、突発的な嘔吐感やパニック障害と闘っているそうだ。
「政権崩壊以前に比べれば、これでもずっと良くなったのよ。いまだに、自分の空腹感や疲労感に、倒れるまで気がつかないことはあるけれど――。でも、トラウマというのはそういうもので、魔法のようになくなることはないということね。だから一番の治療は、そういうものとして、トラウマと共に生きる方法を見つけることね。」


そう言って、彼女は、いつもの穏やかな表情を見せた。


政治的トラウマに関する彼女の論文の中に、
●トラウマは、必ずしも、心地の良い特別な空間だけでのみ、治癒されるものではなく、不安定な逆境下でも癒えることがある。
●トラウマを克服した人間は、決して受身で脆い「犠牲者」ではなく、自身にトラウマを課した、その社会を変化させる「主体者」になることができる。


ということを主張した箇所がある。


それは、トラウマを受けた人間を、哀れな「患者」と一方的に決めつけて、「セラピー」で何でもかんでも「治療」してしまおうとする、現在支配的な西洋的ナラティヴに対する、彼女のアンチテーゼに他ならない。たしかに、センチメンタルな言い方をしてしまえば、彼女は、歴史に翻弄された人間の一人かもしれない。だが彼女は、そしてこの時代を生きた彼女の同志たちは、虫けらのようにボロボロになりながらも、家族のため、同志のため、国家のために、命を燃やして歴史を動かした、紛れもない主体者に他ならないのだ。
心理学者であるということが、果たして彼女の人生をどこまで楽なものにしてくれたのか、あるいはその逆なのか、おそらく彼女自身も分からないだろう。だが、彼女は、今、平和心理学者として研究を追究することで、自分自身を治癒しているのかもしれない。


今回の「特別授業」に関して、こんなに感情的な授業をして、プロフェッショナルとしての自覚に欠けるのでは、という辛らつな意見も一部あったようだが、果たして本当にそうだろうか。彼女が体を張ってわたしたちに伝えた強烈なメッセージに、「お情け頂戴」的にチープなストーリーしか読み取ることができないのだとしたら、そして、構造的暴力から派生するトラウマに、魔法の治療薬を期待しているのだとしたら、それこそセラピーのハウツー本でも買って読むのが手っ取り早いかもしれない。


彼女が体現していたのは、歪んだ社会構造が、一人の人間に、女性につきつける暴力のインパクトのすさまじさと、それに必死に立ち向かう人間の葛藤と、その美しさと強さではなかったか。そして、それをこれほど生々しく学生たちに伝えることができるのは、彼女の他にそういないだろう。



「私の生きがいは、なんと言っても息子ね。あのとき、私も女闘士として、子供と離れ、地下に潜るという選択肢もあったの。
でも、私には、それはどうしても出来なかった―-。そのことでずっと罪悪感にさいなまれ続けたけれど、それでも、後悔したことは
一度もない。きっと私は、人生を息子にもらったのね――。」


最後に、そうしめくくったときの彼女の穏やかな微笑みに、一人の母としての幸福な姿を見た気がした。