sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

サンミゲル・ビールと農民の話。

sayakot2008-04-20

フィリピンで「ビール」といえば、サンミゲル。キリンがその株を一部取得したこともあって、
日本でも知名度はそれなりに高いようで、以前日本から遊びに来た友人から、当たり前の
ように名前を挙げられて、こちらが驚いたことがあった。そのすっきりとした爽快な飲み応えは、こちらの、ムシムシとした気候とたまらなく相性がよく、わたしもよくお世話になっていた。


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先日、授業で、衝撃的な映像を見た。
馬に乗った男たちが、鉄条網の向こうでライフルを構えている、緊張感の高い、あるシーン。
場所は、ミンダナオ島ブキドノン州スミラオ。
彼らはフィリピン国軍でも、イスラム過激派でも、NPA(共産党ゲリラ)の一団でもなく、実は、
サンミゲル社に雇われた、セキュリティー・ガードたち。そして彼らが警戒していたのは、この土地の返還を主張する、スミラオの小作農民たちだった。


1990年、フィリピン政府は、農地改革法に基いて、小作農民たちに同地の分配を約束した。
しかし、土地の所有者であった有力者一族は、明け渡しを求める政府の要求を拒否。農民たちの決死のハンガーストライキも空しく、その後の政府の対応は、二転三転。2002年、一族は同地を、フィリピン最大の食料・飲料メーカーであるサンミゲル社に売却。サンミゲル社は、直ちに土地を鉄条網で包囲し、農業関連産業コンプレックスの建設に着工する。


サンミゲル社は、同社の存在が、地域に数千もの雇用を創出するだけでなく、同地の地方政府は、現状の30倍もの税収を得ることになり、その恩恵は地域住民に対する福祉として広く還元されるはずであり、一部の小作民に土地を分配するよりも、はるかに大きな経済効果をもたらすことができる、という論理を、自らを正当化する主張の一つとした。
「経済成長」の名の下に、「社会的正義」を犠牲にして良い理屈がどこにあるのか――?農民たちの叫びは、届かなかった。


2007年10月。スミラオ農民たち55人は、ミンダナオ島からマニラの大統領宮殿までの1700Kmの道のりを60日間かけて行進するという、”Walk for Land, Walk for Justice”キャンペーンを組織する。一家の大黒柱である夫や、幼子を抱える母たちが、決死の直訴に出たのだ。NGOや大学、カトリック教会などの支持を得て、全国的な注目を浴びることに成功したこのキャンペーンで、農民たちはアロヨ大統領との念願の対面を果たし、事態の「即座の解決」を約束された。
だが結局、事態が変わることはなかった。
農民たちは、絶望した。


そして先月。ドラマは突然のフィナーレを迎える。
それは、フィリピン社会に絶大な影響力を持つ、カトリック教会の介入だった。
枢機卿との対談の後、サンミゲル社は、それまでの強硬な姿勢を一転、スミラオ農民に対する土地の返還を発表した。翌日、農民が司祭にすがりつく感動的なカバー写真と共に、メディアは一連の出来事を、農民たちの非暴力運動(Non-Violent Movement)の勝利として、華々しく取り上げた。約20年間に及ぶ、スミラオの闘争は、ハッピー・エンドで幕を閉じた。


だが、この「勝利」は、果たして本当に、農民たちの「非暴力運動」の成果だろうか?
確かに、今回の結果は、農民たちが、ただ泣き寝入りしていたり、あるいは武器を持って共産党ゲリラに加わっていたりしたならば、決してありえなかったものに違いない。だが、成功の最大の要因は、今回の闘争が、NGOや大学、教会やメディアといった多様なアクターを巻き込み、全国的な動きへと発展することができたからに他ならない。特に、カトリック教会を味方につけたことは、決定的だった。教会の存在を軽んじることは、企業にとって、国民の8割以上を占める消費者を、敵に回すことにつながりかねないからだ。


逆を言えば、スミラオの闘争が、今回ほどの大きなムーブメントになることがなければ、「自分たちの土地を耕したい」という、農民たちの、ささやかで切実な声など、いとも簡単にかき消されていたはずで、今回のケースは、そうした意味で奇跡に近い。フィリピンだけでなく、今も多くの途上国で、小作人たちが、多国籍企業と契約した大地主の下で搾取され、抵抗したがために射殺されてしまうという現実が、実際に多く起きているからだ。


「企業の経済活動は人々の生活を豊かにするものだ」という前提は、わたしたちが思っているほど当たり前のものではなくて、時に、「まったく」逆のことが起きうる。前の文章をより正確に言うならば、「企業の経済活動は、『一部の人々』の生活を豊かにするものだ」、というのが、正しいかもしれない。


もちろん、今回のケースで言えば、責任はサンミゲル社だけにあるのではない。
世論に合わせて論調をころころと変える優柔不断なフィリピン政府、法に執行力を持たせることができない脆弱な司法システム、
目先の利益に目がくらみ、農民を守ろうとしない地方政府、腐敗した行政に無感覚になりかけている国民、そうした環境を利用して利益追求に走る企業と、そうした企業の経営のあり方に無関心で無批判な消費者――。問題は社会構造そのものに根差している。


構造的に組み込まれた「問題」に対して、人は、どのように向き合えばよいのだろう――?
そのヒントは、社会心理学の授業で出遭った、“conscientization”という言葉にあるように思う。 「意識」を意味する、“consciousness”という言葉を原型とするこの言葉は、「意識化」と訳され、人々が自身を取り巻く環境に対し、批判的に、意識的に、行動的になる心理プロセスを指す。


そして、「意識化」や啓発の対象は、しばしば、抑圧されている「弱者」その人たちに向かいがちだが、覚醒した彼らの「意識」を、実際に力を持った「行動」へと後押しできるのは、グローバルな経済活動の直接的恩恵を受け、様々なリソースへのアクセスにも恵まれた、わたしたちの「意識化」にあるのではないかと思う。身の回りの出来事に、社会の出来事に、そして世界で起きている出来事に、どれだけ自分自身が意識を向けられるか、どれだけ多くのアクターを「意識化」できるか――。


平和の構築論は様々あるけれど、結局のところ、それにかかっているような気がしてならない今日この頃です。