sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

Pura Vida! 【コスタリカ編:最終回】

sayakot2008-02-18

コスタリカを発つ日が、ついにやってきた。
この1、2週間は、通常の授業に加え、今まで共に学んできた欧米やアフリカのクラスメート
たちとの「お別れ」イベントがたて続きで、荷造りをする時間があるだろうかというくらい、
本当に慌しかった。


そんな中、先日、同じクラスでルワンダ出身のCが、2週間の「元兵士たちのための社会
復帰に関するセミナー」に参加するために、コースの半ばでイギリスへ旅立った。


君たちがコスタリカを発つときには、僕はまだイギリスだけど―。またいつか世界のどこかで
会えることを心から願っているよ―。その日までお互い頑張ろう、彼はそうぎゅっとわたしを
ハグして、教室を出た。Cと会うのは、これが最後かもしれない、そう思うと、締め付けられる
ような淋しさがこみあげた。そして同時に、この6ヶ月間のコスタリカ滞在で、自分の中に
確かに築かれた「何か」を実感した。


Cは、昨年8月に始まった平和学の基礎講座から、同じクラスだった。以来、グループプレゼンテーションなどを一緒にする機会は
何度かあったが、正直始めの頃は、わたしは、彼の訛りの強い英語と、いかにもアフリカのエリート官僚らしい、何事にもまったく
物怖じしないストレートさと、世の中を茶化したような態度が苦手だった――今振り返ると、彼に対するそうしたわたしの印象は、
ルワンダ」というある種、強烈なバックグラウンドを持つ彼に対する、ある種の「コンプレックス」からきていたのではないか
と思うのだが。


初めて国連平和大学のキャンパスに踏み入れたときの衝撃は、今も鮮明に覚えている。授業中はもちろん、昼食、行き返りのバスの中でさえ、学生たちの真剣な議論を耳にする。皆それぞれに課題で忙しいはずなのに、様々な署名活動や講演会が、どこかの教室で常になにかしら催されている。そこでは例えばコロンビアやスーダンルワンダリベリアからやってきた学生たちが、女性の自立支援やHIV問題、食糧の安全保障や、経済発展と環境保護のバランス、対立民族間の和解プロセスなど、「自分の」国や地域に山積する問題を、今後いかに克服していくべきか、国際社会はそれにどう対応して聞くべきなのか、熱く意見を戦わせているのである。


そうした光景を前にわたしは、興奮と同時に、戸惑いを覚えた。日本でのほほんと生きていた自分が、「平和学」という広大なフィールドの中で、何を根拠に自身の方向性を定めていけばよいのか、手がかりがまるでない気がした。大学が始まってからしばらくの間、コロン町やホストファミリーの紹介をする以外、ブログに一体何を書けばよいだろうかと本気で困った。
そしてその解決策として、まずはこうした「強烈」な環境からやってきたクラスメートたちの切実な想いを浴びて、世界にはこんな現実があるのだと、彼らのリアルな経験を日本に発信することを、自分のミッションにしてみようと決め込んだのだった。


・・・。
だが、いざ実際に本人たちを目の前にすると、その試みはあっさりと阻まれた。
「あなたのこれまでの体験を教えてください」という質問の持つ重みは、想像以上だった。


例えば、冒頭に紹介したCは、自分はウガンダ生まれのルワンダ人なのだと、顔合わせのときに皆に話していたが、その経緯をさりげなく聞いてみると、どうやら彼は、ウガンダルワンダ難民の息子として生まれ、90年に、愛国戦線の発足と民族主義の高まりの中で「帰国」した、ツチ族の一人であることが分かってきた。だがその時点で、わたしは、彼やその両親が、94年に何を経験したのか、(そしてそもそもご両親は生きているのか)、踏み込むことを諦めた。


1994年4−7月。この約100日間に、人口の1割に相当する80万人が虐殺されたという、ルワンダ。仮にCが、目の前で父親を撲殺されたツチ族の若者だとして、あるいは逆に、近隣住民をナタでなぶり殺にしたフツ族だとして、わたしは彼のその告白に応える覚悟が、本当にあるだろうかと自信がなくなったのだ。わたしが行おうとしていたのは、ジャーナリズム以前の、タブロイド記者のようなもので、結局のところ、わたしは、彼らからいかに「ブログ映え」するドラマチックな体験を引き出すことができるかというレベルでしか考えられていなかったのかもしれない。自分が平和学を志す根拠を、あたかも親身な第三者のように、友人たちの「悲劇」に求めている自分が、情けなかった。そしてその瞬間、偽善でも理想主義でもなんでもなく、ひとりの人間として、日本人として、ありのままの自分として、主体的にこのフィールドに立つ「理由」を、明確にしていかなければいけないと心から感じた。
Cのストーリーと本当に向き合うのは、それからだ――。


サバサバしたCのことだから、タブロイド誌の取材だろうとなんだろうと、そもそも何も気にしなかったかもしれないけれど、そうした
覚悟を決めてからは、Cや他の境遇の学生たちとも、変に気負わずに話せるようになった。また、相手の詳細な過去など知らなくても、その体験に基づいた視点や価値観は、日々の言動や授業での発言、未来を語るその言葉に、確実に反映されているのだということにも気付いた。そして、こうして友人たちから得たことや、ウォルフガング教授やソーシャル・アントレプレナーシップのゼミで学んだことは、前回のフィリピン滞在から見つけてきた「点」に少しずつ加わって、様々な方向へ広がりながら、互いに結びついてきている。フィリピンに戻ったら、わたしの大好きなあの混沌とした大都会は、また一体どのように映ってみえるだろう――?



・・・。
そういうわけで、コスタリカ編はここで終了です。
住み慣れた家も、あと5時間後には出発だなんて信じられないですね。
コスタリカでお世話になった皆さま、本当にありがとうございました。
引き続きマニラ・レポートを、是非どうぞよろしくお願いいたします。


◆◆◆
写真は、通学路に咲くコーヒーの花。
最終週は、大学からコロン町までの山道を歩いて帰りました。