sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

マニラ到着。

sayakot2008-02-27

6ヶ月ぶりのフィリピンは、「何も」変わっていなかった。


それは例えば、通りに一歩出た途端、思わず口を覆いたくなるような、生ゴミ排気ガス
混じった臭い。そして朝夕の、激しい交通渋滞。巨大な輸送用トラックや自家用車、タクシーに混じって、フィリピンの典型的な風景である、ゴテゴテに彩られたジプニ−(公共交通用
ジープ)とトライシクル(リヤカー付2輪車)がクラクションを鳴らしながら無秩序に行き交い、
人々はその間を危なっかしく横断している。道路のすぐ脇では、ゆでトウモロコシ売りの
おばちゃんが、相変わらず慣れた手つきでトウモロコシの皮をつぎつぎに剥いでいる。
まだ雨季には少し早いはずなのに、空は朝からどんよりとしたままだ。


夕方、クリーニング屋に行く途中、前を、ゴミをいっぱいに積んだリヤカーを引く女性が歩いていた。ゴミの山には3才くらいの小さな女の子がもたれかかっていたのだが、わたしと目があった瞬間、こちらをじっと見つめたまま、無言で小さな手を伸ばしてきた。母親はそれを気にする様子も無く、ただ重い足取りを進めた。わたしは、ごめんねと小さく首を振ってから、無言でその母子を追い越した。そして、幼い娘が外国人に物乞いする様子を目の当たりにする母親の気持ちに自分を重ね合わせ、
この胸の痛みは、わたしの感傷的なエゴにすぎないだろうかと考えたりした。


数十分後―。用事を済ませて家に戻る途中、同じ親子に遭遇した。母親は、リヤカーを歩道脇に停め、ケンタッキーフライドチキンの店から出されたゴミ袋を開けて、中のゴミを手で仕分けていた。子供はそのすぐ隣で、暗がりの中を一人で遊んでいた。ケチな外国人だと分かったのだろう。もうこちらを見向きもしなかった。


向かいの大学前の通りでは、アロヨ大統領の辞任を求める学生たちのデモが行われていた。アロヨ政権を糾弾する大きなバナーを持った若者たちは、信号で車が止まるたびに、ドライバーたちにビラを渡していた。無視を決め込み窓を閉めたままのドライバーもいれば、窓を開けてビラを受け取り、彼らに何か声をかけるドライバーもいた。


2月25日はフィリピンにおけるピープル・パワー革命の記念日で、国民の祝日となっている。1986年のこの日、人々は独裁者マルコスの退陣を求めて立ち上がり、大挙してマニラ首都圏の心臓部を貫くEDSA通りに押し寄せた。貧困と汚職が恒常化していたこの国で、22年前、確かに歴史は動いたのだった。


6ヶ月ぶりに向かう、この『Manila Report』。
深夜になってもまったく収まる気配のない遠くの喧騒から、


“Welcome Back to the Philippines――”。


そんな声が聞こえてきた気がした。