sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

件名:「アンチ『世界平和』論」について

sayakot2007-11-09

先日書いた「アンチ『世界平和』論」について、知人であるA氏から、
メールをいただいた。


ウォルフガングのいう「社会の数だけ、平和が存在する。」という構想が、
実は、A氏が以前から関心を寄せている国際私法(Private International
Law, The Law of conflict of Laws)の基本的な発想 ―「社会の数だけ、
法(=法学者にとっての平和)が存在する―に一致していて、それを前提と
した上で、国際社会にいかに法(=平和)を実現させるか、というA氏の
問題意識が、どこか今回のブログの内容と重なったということを、わざわざ
教えてくださったのだった。


また、同時に、A氏の鋭い指摘から、思いがけず4往復におよぶ、メール上での議論(意見交換)が展開した。
今回は、そのごく一部をご紹介したい。


Q.1 「社会の数だけ平和が存在する、『平和』観」は、「抑圧」か?
ウォルフガングは、その講義の中で、人々が、自己の偏狭な「平和」観を乗り越えて、互いの「平和」を認め合い、新たな「平和」を模索することを、「合理を超えた『平和』(Transrational Peace)」と呼んだ。そしてこれこそ、真の「平和」の構築のための鍵では
ないかと問題提起した。


だが、「いろんな『平和』」の普遍的実現を主張する行為自体、西欧文化を自明の前提として、それに基づく「平和」を押し売り歩く「抑圧者」に陥ってしまう可能性はないのか―?


これが、A氏の最初の論点だった。


『このような平和観自体、無意識のうちに自由主義を良しとする西欧文化圏に属する人間にとってしか、受容し得ないものではないかと・・・一部省略・・・(間違いだと思っていると言うよりも、この点を、学問的に解明する必要があると思っている、という意味です。)。つまり、このような「平和」を主張し、普遍化すること自体、おそらく、神を唯一絶対の存在として信じる人々にとっては、
受け入れられない選択肢であり・・・』


たしかに、ウォルフガングの提唱する「平和」は、例えば一人の神を絶対とする『モラルの平和(Moralist Peace)』に生きる人々に
とって、そう簡単に受け入れられる選択肢でないことは間違いない。しかしこの発想自体が持つ、多種多様なもの全てをひっくるめた「調和」の中に「平和」を見出すという感覚は、(前回紹介した『エネルギー的平和(Energetic Peace)』のように)、「自由主義
という名前ほど明確でないにせよ、必ずしも西欧世界に限定されたものではないように思う。


いずれにせよ、「合理を超えた平和」は、あくまで一つの「平和」に過ぎず、普遍的なものでないことは、ウォルフガング自身も認識しているはずで、その上で敢えて、彼はこの新しい「平和」の形を提唱しているように思う。だが、もしそれが異なる「平和」を持つ者にとって「抑圧」になるならば、ウォルフガングはそれを「押し付け」ることはしないだろうし、どちらかというと、A氏自身が推測したように、それらが「押し付け」と認識されないような形で、両者がうまく共存する道を探すよう、彼らを上手に「教化」するに違いない。


ウォルフガングが帰国して1ヶ月が発つ今、もはや彼の言葉を語ることにためらいはあるが、少なくともわたしの理解では、ウォルフガングにとって(そして、わたしにとっても)、「平和」とは、常にダイナミックなものであり、「モラリスト」とか「モダニスト」といったラベルが貼られた箱に、いつもきっちり収まっているものとは限らないのだと思う。


(もっとも、法の世界に身を置くA氏は、この点に関しては、すべては言語によって理論的に説明されなければならず、もし、「平和」が「『ラベルの貼られた箱にきちっと収まらない』とするならば、きちっと収まる箱を自ら構築して、言語表現しなければならない」ということも指摘していた。)


Q.2 「法」=「秩序」=「平和」か?
ウォルフガングも、A氏も、共に「いろんな平和」の存在を信じ、それらを包含する「世界平和」を構築しようするその志は同じだが、その実現に向けたアプローチの違いは明確だ。


A氏は、平和を「法」と「秩序」との関係性の中に捉えている(この場合の「法」は、国家による、狭義の「法律」の意味ではなくて、自己と他者の「自由」の範囲を明確にする、「自由の保障」としての規範であるとのこと)。規範としての「法」があってこそ、自分と他者が並存することができ、そのようにして、「各人の自由が保障された状態が、原理的な法による『平和』」なのだそうだ。


もっとも、A氏は、ウォルフガングやわたしの捉える「平和」が、単なる「並存」でなく、「共存(=交流・交渉をもって共に生きる)」までを要求している、ということを見抜いた上で、やはり最低限の「秩序」として、「法」としての「平和」が必要であると考える。そういった意味で、A氏は、この「秩序」を打ち破って平気で他国の自由を侵害するアメリカの姿勢には批判的である。


そして興味深いのは、A氏にとって、多様性の中の並存による「平和」は、理性に根拠付けられるとしているところで、人間が、合理的になればなるほど(個々の感情や、自己利益のみの追求といったことをやめて、理性に従って行動すればするほど)、その実現が近づく、と考えているということだ。


Q.3 「たくさんの平和」の「平和」を可能にするものは、「合理」か「非合理」か?
それぞれの「平和」の中に生きる人々が、それらを超越した「平和」を実現するために必要なものは何だろうか?


コンフリクト後の様々な地域で、住民たちの和解プロセスに関わっていたウォルフガングは、抑圧されていた人々が望んでいるものは、究極的には、「人権」とか「協定」とかいったものではなく、人間としての愛(Love)とか尊敬(Respect)とかというものに集約されることに気がついた、と語っている。互いに異なる「平和」に属する人々の間に「対話」が可能だとすれば、それは、理性を超えた(Transrational)、普遍的な「愛」とか「情愛」とか、そういった「何か」が存在するからだ、というウォルフガングの考えには、わたしもまったく同感だ。


このことについてA氏は、実務家(実際に紛争地域の和解プロセスに関わっているという意味で)でもあるウォルフガングが、「人間としての愛(Love)とか尊敬(Respect)」という言葉で自らの活動の原理を説明することを、決して否定しないこと、そして特に、その人柄・人格を知ることによって、わたしを含めた学生たちが、彼の述べる「愛(Love)とか尊敬(Respect)」という言葉の内容に「共感」し、それを「体得」したのはもっともなことだ、と言う。


ただ同時にA氏は、例えば、私のブログのすべての読者が、私が理解する意味で、ウォルフガングの「愛(Love)とか尊敬(Respect)」を理解しているわけではなく、そこに十人十色の解釈が存在してしまう可能性を指摘し、実世界の「法」という秩序を構築する立場の人間として、世界の60億人の人々に一義的に理解できるよう、理性的に、その実態を言語化する必要性を、提起する。


そういう意味で、たしかにA氏の言うとおり、ウォルフガングのアプローチは、「戦略的」かもしれない(善い悪いはまったく別として)。自身の主張の真髄である「合理を超えた平和」についてさえ、彼は「愛(Love)とか尊敬(Respect)」という言葉を用いながら、
それらの具体的な意味内容を言語化しないまま、その類まれなカリスマ性で、その意味するところを、わたしたち学生に、(恐らく)完璧なまでに「伝達」しているからだ。 そしてそのインパクトの大きさは、前々回のテーマである“Wolfgang旋風”に紹介したとおりで、わたしを含めた、彼を実際に知る個々人の実際の思考や行動に、強烈な影響を与えている。



さて。
「合理を超えた何か」に「平和」を見出すウォルフガングと、「理性に基づく秩序」に「平和」を見出すA氏。
常に動的な社会の状態に、現実の仕組みとしての規範を構築しようとするその試みは、終わりのないチャレンジのようにも思える。一見、完全に断絶しているように見えるこの両者を、結ぶものは、一体何なのだろう。



◆◆◆
それにしても、フィリピンでの生活の始まりと同時にブログを始めて、かれこれ半年―。
周囲のサポートを得て、こうした特殊な機会を与えられた身として、目で見て、耳で聞いて、肌に感じた、自分なりの経験や気付きを、日本にいる家族や友人・知人たちに発信できればと思い、ぎこちなくスタートしたものの、一方通行に陥りがちなこの媒体の
性質は、アカデミックなバックグラウンドも、フィールド経験もないわたしを、しばしば不安にさせます。


そうした意味で、今回のようなA氏を初めとした皆様のフィードバックは何よりありがたく、また、こうしたやりとりを通じて、
いろんなシナジーを生み出すことができたらと願っています。


未熟モノではありますが、どうぞ今後ともよろしくお願いいたしマス。