sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

「平和」と「欺瞞」と。

sayakot2007-09-29

“What is ‘Peace’ to you? How is your perception of ‘peace’ different from the one your culture or society defines? ”
(あなたにとって「平和」とは何でしょうか。それは、あなた自身が所属する文化や社会が捉える平和観との間に、どのような矛盾をもたらしているでしょうか)


これは、今週提出したエッセーのテーマ。自身の主観、体験、何でもOKというこの課題は、今まで耳にタコができるほど強調されてきた、先行研究を重視する“学術的”レポートとはまったく色を異にしており、その自由さゆえに、逆にずいぶん戸惑った。


「平和」とは何だろう。


その答えは、たしかに、それぞれの文化や社会によって大きな傾向があるかもしれない。例えば、戦争放棄を明記した日本国憲法は、しばしば「平和主義」憲法と言われるけれど、そのことは、「戦争の不在」を「平和」と捉える日本社会の平和観をよく表しているように思う。


わたし自身、小学生の頃から繰り返し、日本の憲法の素晴らしさを習ってきたし、それを誇りに、も思ってきた。まるでそれが日本の平和を自動的に約束してくれる魔法であるかのように、信じてきた。そしてそんな道具を持っていなかったかつての日本で起きた悲惨な歴史と、今のイラクアフガニスタンパレスチナの現状に心を痛めつつ、「豊か」で「平和」な今の日本の社会に感謝してきた。


でもそこに、2つの欺瞞が隠されていないだろうか。


日本はそもそも「平和」なのだろうか? 「戦争の不在」を「平和」と同義語にすることで、社会に溢れる様々な問題を見逃していないだろうか? いじめや中高年の自殺、移民に対する差別や偏見、これらをただの「社会問題」として片付けてしまっていないだろうか。その根底にある本質的な問題は、世界の紛争の背景にある諸々の要素とそんなに違うものだろうか。


そして、日本の平和は、外の世界とそこまで独立した形で存在しているのだろうか? 日本以外の多くの国々は、日本の安全保障を本当に守っているものは、憲法ではなくて、沖縄の米軍基地だと思っている(実際に、こちらでもよく指摘される)。その真相のほどはともかく、少なくとも、こうした現状が一般レベルであまり意識されていないのには、どうしても違和感が。


ほとんど「ラッキー」とばかりに、「平和」が当たり前のものになってしまっている日本。俗に言う「平和ボケ」という言葉自体、先ほどの2つの欺瞞を体言しているような、そんな気がする。


日本の社会がもっと現状に悲観的になればいいのに、そんなことを言いたいのではない。ただもうほんの少し、外の世界で起きている出来事を、自分自身との関係性の中で捉えることができたら、と私自身の自戒をこめて思うのだ。


ミッドタウンのファンシーなバーで高級シガーに酔いしれることは決してワルくない。でも、たまたま口にしたそれが、もしかすると中米のどこかのプランテーションで、低賃金労働者たちが汗水垂らして作った、彼ら自身は「一生」味わうことのない、そんな一本であるのかも――。そんな想像力をちょっとだけ働かせてみること、それが大事なのではと思ったりする。それが彼ら自身の生活にどんな違いを生むわけではないけれど、それこそただの欺瞞だと、人は言うかもしれないけれど、そういうささやかなことから、自分と世界とのつながりが始まるのでは、そんな気がする。自分たちだけで閉じてしまっている今の平和観から、今こそ抜け出していきたい。



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写真は、トルトゥゲーロ国立公園で出会った、ニカラグア移民の少女。手に抱えているのは、観光客向けのココナッツ。