sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

ケニアの出来事

sayakot2007-09-08

同じセミナーに所属するKは、ケニア出身のお洒落な女の子。


凝ったブランド品を身につけているわけでもなく、かといって「ザ・民族服」的な衣装をまとっているわけでもないのだが、故郷から持ってきたという色とりどりのビーズをあしらったブレスレットやピアスが、都会ッシュな彼女のスタイルにいつも絶妙にマッチしている。朗らかなのにとても涼しげな彼女のオーラが、わたしは妙に好きだ。


そんなKから聞いた、彼女の部族で今まさに起こっている、あるコンフリクト。


ケニアには、古くから男女の割礼の文化があり、特に男子の割礼は、今でも多くの部族で行われている。


そして今年2月。彼女の故郷にある、公立高校の校長が、割礼を受けていない男子生徒10数名に停学処分を下した。ことの発端は、既に割礼を受けているマジョリティの生徒たちが、割礼をしていない生徒らと同じ空間で勉強することを拒絶したことから始まった。そしてこれら生徒たちの強圧的な姿勢を擁護するかのように、校長は、割礼をしていない生徒たちに対し、割礼を受けるまでは学校に戻ってこないよう言い渡した、という流れ。


当然、ケニア政府教育省は、校長の判断を人権侵害として非難、到底容認すべきではないとの声明を発表したが、コミュニティの人々は、むしろ校長の決定を支持。さらに、既に割礼を受けている学生達が、政府に対する抗議の意をこめ授業ボイコットをスタートしたとのこと。事件は未だに決着がついていないそうだ。


Kはどう思うの、そう聞いたところ、うーん難しいところね、との意外な答え。


ケニアに生きる青年たちにとって、割礼は、「一人前の男」としての社会的アイデンティティを形成する上で非常に重要な通過儀礼。一つのナイフをシェアし、精神的、肉体的苦痛と引き換えに得られるものは、同士たちとの一体感であり、成人男子としての自信であり、誇りである。Kがさらりと言うことには、彼女の部族では、割礼をしていない男性は、家を持つことも、結婚することも、ビジネスを営むことも許されないのだとか。彼らにとって、伝統を否定することは、社会的な「死」に限りなく近いのかもしれない。


じゃあ、自分に息子が出来たら、たとえその子が嫌がっても、割礼をさせると思う?


「もちろん」


今度は、即答。


「でも、川べりで皆が使ったナイフをシェアするような、そんな古臭いやり方はさせないわ。近代的な医療設備の整ったところで、より苦痛が伴わない形でさせると思うわ」と、彼女は続けた。
通過儀礼とは、それに関わるあらゆる一連の形式やプロセスがもっとも意味を持つことだと思っていたが、彼女にとっては、それを行ったという「結果」がより意味を持つということだろうか。


“Western”社会の価値観を規範とした現代の流れと、文化や伝統といったエスニックのプライドと、将来息子を持ちうる一人の女としての視点。もし、日本でこのニュースを耳にしても、そのダイナミクスに意識を向けることはなかったかもしれない。いや、間違いなく、トンデモない国もあるものだとワイドショー的な小ネタ程度にしか思わなかったのではないだろうか。



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写真は、町の中心にある教会。もっとも人気の待ち合わせスポット