sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

出張レポート 〜ふるさと・人情・カラオケ編〜

sayakot2008-08-05

7月27日から、インターン先である国際NGOセーブ・ザ・チルドレン・ジャパン(SCJ)ベトナム事務所のマイクロファイナンス(小規模貸付)事業のプロジェクト現場に出張同行してきました。「外国人を見るのはあなたが初めて」とあちこちで言われながら、わたし自身も「初めてづくし」の、刺激的な5日間を過ごしてきました。


◆◆◆
途上国や紛争地域における「子どもの支援」をミッションとするSCJと、「マイクロファイナンス」という金融サービスの関わりは、一見、見えづらいかもしれない。
でも実は、子どもの「健康」や「教育」は、その地域や世帯の、「経済」と、切っても切れない縁がある。なぜなら、途上国で生じる「保健」や「教育」の問題には、
その根源に、しばしば慢性的な「貧困」があるから、それに向き合うことなしには――つまり、地域や世帯レベルでの経済状況が改善されないことには――本当の意味で持続的な子どもの支援は実現しないのである。そしてそうした現実の中で、マイクロファイナンスは、低所得層の人々が、新たな収入源を創出するための、最初の「とっかかり」となる元手を貸し付ける、金融サービスなのである(より詳しい内容については、本ブログ1月27日をご参照ください♪)。


さて。わたしが向かった先は、ハノイから北西へ約200km、車で約7時間のイエンバイ省ルックイエン郡。小さなコーヒー屋さんでのんびり休憩していたら、サソリが足元を歩いていたり、トイレに行ったら、便器も天井もない床スペースに、ただ囲いがあるだけだったり、ここは、ハノイの人々にとっても、「奥地」中の「奥地」だ。タイ族を中心にした少数民族が多く生活していて、人々の多くは、
米や茶栽培などを中心とした農業に従事している。一見すれば、のどかな田園風景の広がる平和な片田舎だが、見方を変えれば、都市部の急速な経済成長から取り残された、典型的な貧困地域でもある。そして実際、この土地の、子どもの栄養不良率や乳幼児死亡率、就学率、世帯あたりの平均年収など、人々の生活水準を示すもろもろのインディケーターは、いずれもハノイのそれとは圧倒的な開きがある。


今回の出張では、SCJが新たに活動を始める4村で、事業に関する説明会を開催した。
対象は、ローンの「潜在的な借り手」である、集落の低所得世帯の女性たちで、ここでのミッションは、マイクロファイナンスに初めて触れる彼女たちに、それがどのような金融サービスなのか、それが彼女達の日々の生活を、どのように変えうるのか、正しく活用するためにはどのような注意が必要なのかといった、基本的な情報を伝えることだった。


それは決して、そうシンプルなことではない。彼女たちの多くは、幼い頃から、一家の重要な働き手として、1日のほとんどを田畑で過ごし、十分な教育機会もないまま、18才や19才で結婚し、日々の農作業の傍ら、妻や母としての役割を担ってきた。そんな彼女たちに、いかに分かりやすく、かつ正確に、マイクロファイナンスの価値を伝え、「私にもできるかもしれない」「よし、やってみよう」と
動機づけすることができるか、それが成功へのキィだった。


「金融サービス」と言葉で聞くと、ずいぶん大げさに聞こえるかもしれないが、例えばそれは、これまで鶏しか飼うことが出来なかった貧困家庭が、豚を1匹購入したり、余分な敷地に植えるためのお茶の苗木を買ったりするための、日本円でいえば6、7千円程度のささやかなローンだ。そして貸し出されたお金は、月単位で、少しずつ返済されていく規則になっている。


さて、前置きが長くなってしまったけれど、肝心の「説明会」の様子について、少しだけ触れたい。会は、複数の集落を束ねる4村で1日ずつ、午前・午後に分けて実施され、各回、村の小さな会場に、60名近い女性たちが集った。外は36度を越える猛暑にも関わらず、場内では、天井に設置された年代物の扇風機だけがギシギシと音を立てていて、湿気で重たくなった空気を、「なんとか」かき回しているような状態だった。


女性たちは初めのうち、場内の、普段とは違う改まった雰囲気に、どこか緊張した様子だったが、同時に、そのまっすぐとキラキラした眼差しからは、「これから一体何が始まるのかしら?」「この外国人はいったい誰だろう?」とでも言いたげな、いたずらっぽい好奇心も感じ取ることができた。彼女たちの多くは、彼女たちなりの、「いっちょうら」らしいこギレイなブラウスを着ていたが、そのよく焼けた肌と、爪の奥まで泥が入りこんだ裸足の足は、農村の生活を想像させた。


この道十数年、というSCJのカンさんが説明を始めると、会場は急に静まりかえる。説明はすべてベトナム語で行われるため、話の内容はまったく理解できないのだが、質問を投げかけたり、冗談を交えたりしながら、女性たちの緊張をほぐそうとしているのがよく分かる。そして実際、彼の誠実な人柄と天性のユーモアにかかると、場内の微妙な空気がまたたく間に打ちとけたものに変化するのには、いつも感心させられた。


ところでカンさんはよく、私たちのマイクロファイナンス事業は、子どもたちの将来を支援するために存在するのであって、決して、
各家庭がTVやエアコンを買うのをお手伝いするために存在するのではない、と力説する。そしてそれは、冒頭でも説明したような事情で、本当にその通りだと思うのだが、一方で、日本に生まれ、物質的な意味では大した苦労もないまま育ってきたわたしとしては、貧しい人々が、カタチのある豊かさに対して少しの夢を描くことを否定する権利が、自分にあるのだろうかと、考えてしまう部分もある。


村に住む人々の多くは、早朝から日暮れまで、毎日毎日、休みなく働いて、それでも、家族が食べていくのに十分な量のお米を生産することができない。だから、農作業の合間に、自家製の豆腐、漬物、お酒などを、遠くの市場へ売りに行ったり、豚を育てたり、子どもを両親に預けて工場にパートに出たり、ときには遠くの町に出稼ぎにでたりして、足りない分の食糧や電気や水道代、医療費などを払うための現金を稼ぐ必要があるのである。そしてそうして身を粉にして働いて得た、世帯あたりの年収は、わたしがインタビューした家庭では、600ドルにも満たなかった。


そして、そうした生活の中でも、彼女たちは、家族同士、近所同士、互いを助け合い、思いやり、これまで生きてきたのである。
蒸し風呂状態の会場内で、小さな子どもをあやしながら、真剣な眼差しで、マイクロファイナンスの解説に耳を傾ける彼女たちに、
わたしはひたすら、頭の下がる思いがした。


ある村で、説明会が終わったときのこと。
参加者の女性の一人がすくと立ちあがり、日本から来てくれたあなたに、私たちの歌を送ります、と言って、美しい民謡をうたってくれた。大河に引き離されてしまった若い男女が、お互いを想って歌を送りあう、そんな内容だったそうだ。田舎の人たちはシャイだと聞いていたし、そもそもわたし自身はただのインターン生に過ぎないから、突然のことにとてもびっくりしたのだが、彼女たちの誠実な思いに、胸が熱くなった。そして、日本ではひたすらに「カラオケぎらい」を通しているわたしなのだが、ささやかでも何かできることはないかと、お返しに、日本の「ふるさと」を歌った。経済が発展し、物質的にはとても豊かになった日本だけれど、あなたたちが今まさに暮らしているような、のどかで平和な田舎の生活を懐かしむ人たちは、日本に沢山います、とつけ加えて。


それは決して、先進国の人間の余裕でもなく、また、「物資的には豊かだが精神的には貧しい先進国」と「その真逆をゆく途上国」という、安易でチープなノスタルジーでもなく、ただ彼女たちに対する心からの敬意として、自然とわきあがってきた言葉だったように思う。そのほとんどが、「外国人を見たのは今回が初めて」という彼女たちに、果たしてそれがどのように伝わったかはよく分からないのだけれど、こんなに温かな気持ちで満たしてくれてありがとう、という、この気持ちが、少しでも伝わったのならいいなと思いながら、ハノイの町に戻ってきました。


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写真は、ある村の会場にて。
左の男性は、村長さん。