sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

アフガンの出来事について。

sayakot2008-08-29

アフガニスタンで起きた、例の出来事。自分がこのフィールドに転身しなければ、こうも身近に、彼の死を感じることはなかったかもしれない。だが、生前、「アフガニスタンの土になりたい」と語っていたという彼の言葉は、何かに心を燃やした経験を持つ人間であれば、誰しも理解できるものではないかと思う。


2つだけ。


◆日本のNGOというものについて
実はつい数日前、アフガニスタンでの仕事を探している友人と、メールのやりとりをしていた。ペルシャ語が堪能で、以前も在アフガニスタンの大使館で働いていた経験を持つ彼女は、国際機関か国際NGOを中心にあたっているとのことで、小さな日本のNGOは選択肢としてあまり考えていないとのことだった。「自分の身を自分で守れるようなところではないから」とのことだった。違いは、潤沢な資金力を持ち、一流の民間の警備会社を雇い、職員に対し強固なセキュリティ体制を敷くことのできる前者と(それでも限界はもちろんあるけれど)、それができない後者。今回の事件が、果たして防ぐことができたものなのかどうか、それは定かではないけれど、ある意味で、彼女の懸念をそのまま証明するかのような出来事にも思えた。


日本のNGO(で働くの)はやめておけ、というのは、こうしたアフガニスタンのような特殊な地域に限らず、様々な開発のフィールドにおいて、わたし自身があちこちで受ける忠告。それが果たしてどこまで現実を反映しているかはまったくの別問題だけれど、そうした声は、国際機関や国際NGOの関係者に多い。組織に蓄積された経験、技術、資金力、社会的認知、職員への待遇や人材育成etc…様々な面において、日本のNGOは、欧米のそれと比べ、何十年も遅れている、というのは、「常識」だ。国際NGOである“Save the Children Japan (SCJ)”でさえ、Save the Children Alliance という国際連盟のれっきとした一員だが、やはり、SCアメリカやSCイギリスとは、予算/活動規模は比べ物にならないし、そこで蓄積された経験も違う。わたし自身、こちらの開発関係者の方に、申し訳なさそうに、SCJなんて存在したのですねと、言われたことが、何度あることか。


もちろん実際には、日本のNGOにも、多くの魅力的な人が働いている。この業界では海外の修士号を持つ人も多いし、民間で長く活躍してきた人もいる。だが、そうした人たちの多くは、その能力にも関わらず、民間では考えられないほど破格に安い給料で働いているのが現状だ。それは、日本では、NGO職員=ボランティアという、ある種の自己犠牲的スタンスが期待されているのに対し、欧米では、「開発分野(Development Field)」プロフェッショナルとして、地位が確立されている状況を反映している。そうしたもろもろの悪循環で、日本のNGOがまだまだ、発展途上なのは明らかで、以前、あるエキスパートに、日本発祥で、世界に通用するNGOの名前を教えてほしいと聞いたら、本当に数団体、片手で数えるほどしかなくて驚いたことがある。


いずれにしても、だ。
アフガニスタンに支援を待つ人々がいる限り、事業を撤退するわけにはいけない、というペシャワール会の代表の言葉には、日本のNGOのプライドと覚悟を感じる。日本のNGOはやめておけ、そう一言で片付けるのは簡単だけど、それでは何も変わらないのも、また、事実なのだ。わたし自身は、そうした現状を、組織の外部から、社会に働きかけることで変えていきたいと思っているが、こうして、実際に内部に飛び込み、現場で汗を流し、奮闘する人たちには、心からの敬意を払いたい。



◆日本の対アフガニスタン政策について
〜8月28日のAsahi.comの記事より〜。福田首相は28日付の内閣メールマガジンで、伊藤和也さんが武装グループに拉致され遺体で発見されたことに関して「(紛争や
貧困に苦しむ)地域や人たちに少しでも手を差しのべていくことが、伊藤さんの遺志にもこたえ、平和協力国家としての日本の役割でもあります」とし、アフガニスタン支援の必要性を あらためて強調した。


町村官房長官も28日の記者会見で、インド洋での給油活動の継続について「日本がテロとの戦いの戦列から脱落をすれば、国際社会の動きと反することになる」と強調。伊藤さん殺害について「尊い犠牲が出たが、テロとの戦いに積極的にコミットする重要性を多くの国民が感じたのではないか」と語った。 』


あまり政治的なことを書くのは好きではないのだけれど、上記の記事に憤りを感じて、つい。
一体どうして、自衛隊によるインド洋での給油活動が、「(紛争や貧困に苦しむ)地域や人たちに手を差し伸べ」る、平和協力国家としての役割といえるのか。今回の事件に関し、日本政府は責任を感じこそすれ、なぜそれが、現在の政策を、国民が後押しする根拠とすることができるのか。


そもそも、その中立性ゆえに「好意的」であった、アフガニスタンの人々の対日感情を反日的なものに変えたのは、そして、一日本人NGOワーカーの命が、タリバンの政治的な道具となってしまったのは、この給油活動にこそあるのではないだろうか。インド洋沖で給油された戦闘機は、「不朽の自由作戦(OEF)」というたいそうな名前をつけた、アメリカを中心としたNATOの軍事作戦で使用され、タリバンと市民の区別もつかない大混乱の同国で、多くの誤爆と二時被害を生み出し、人々の命を奪い、土地を破壊し、憎しみの連鎖をさらに複雑なものにしている。日本政府は「平和協力国」と自らを称し、その加担をしているのである。かつてアフガンの武装解除を担った伊勢崎賢治教授は、こうした米国追随の政策が、日本のNGOを狙った事件を必ず引き起こすと、以前から警鐘を鳴らしていた。 (『伊勢崎賢治の15歳からの国際平和学』:http://www.magazine9.jp/isezaki/index.html) 現地の人々が本当に必要としているものは何なのか、日本の強みを最大限生かす支援とは何か、そうした視点で、もう一度、支援のあり方を考え直す必要があるのではないだろうか。


伊藤さんの死を、日本政府は、政治的なものに利用しないでほしい。
それは、アフガンの大地に緑をと真摯に願ったその人の望むところとは、「真逆」に思えてならない。