sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

ガーナ滞在記その2:エルミナ城〜奴隷貿易の歴史〜

sayakot2010-09-12

9/4-9/11: AGRAのフォーラムを終え、首都アクラから車で3時間のケープ・コーストに移動。ウガンダ・ナイジェリア・マリ・エチオピア4カ国のSAAオフィスのディレクター陣、各事業部のディレクター陣、そしてエクゼクティブディレクターが一同に介し、2011年の事業と予算計画を話し合った。


暗い色をした大西洋が目の前で豪快に波打つCoconut Grove Beachというホテルで、6日間、朝8:30から18時まで、ほぼ缶詰で会議会議会議。。。SAAの今後の方向性を知る上でも、また、普段ほとんど顔を合わせることのない他国オフィスのスタッフたちと、寝食を共にし、組織としての一体感を高めることができたという意味でも意義深かったけれど、わたしにとっては初めての西アフリカ、そしてアフリカでは2カ国目となるガーナを、いろいろと探索する時間がなかったのは心残り。移動中、バスの車窓からみえる町や村の様子があまりに興味深いので、途中下車できないのをうらめしく思ったりした。


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しかし3日目だけは別。会議の合間をぬってタクシーをアレンジし、世界遺産であるエルミナ城へ、駆け足で訪問。1482年にポルトガル人によって建てられたこの城は、サハラ以南で最古のヨーロッパ建築。当初は金や象牙の輸出のための貿易港として機能するが、17世紀以降の200年間は、大西洋奴隷貿易の主要な拠点として栄えた。


奴隷貿易の悲惨さの一つは、それを促進したのが、「西欧」対「アフリカ」という構造だっただけではなく、そこに“slave catcher”と呼ばれる部族集団が存在したこと。部族間の対立構造を巧みに利用した西洋人たちに踊らされた彼らは、敵対する部族を捕らえては、銃器や布などと引き換えに彼らを売り飛ばした。


大陸各地から集められたアフリカ人たちは、「出荷」を待つ商品の貯蔵施設として機能したエルミナ城で、男女別別の部屋に押し込められた。初めて見る白人、巨大な要塞、海、船・・・訳が分からぬまま、力づくで故郷の地から引き離されてきた彼らは、光も風もない薄暗い暗室に閉じ込められ、その多くが強烈な熱気、糞尿の臭気、レイプ、暴力、マラリア、黄熱病にさらされ、絶望のうちに命を落とした。遺体は海に遺棄された。だがそれも、弱者を排除するためのプロセスだったというから、人間がどこまで身勝手で残酷になれるかということを、痛切に感じさせられる。城には、支配者が気に入った女性を見定めるために利用したというバルコニー、懲罰のために使った鉄の鎖、そして出荷の時を迎えた奴隷を舟場に積み出すために利用された小さな扉――「帰らざる扉"Door of No Return”」が、生々しく残っていた。


エルミナ城には、アフリカ系アメリカ人の訪問客が多いそうだ。彼らの多くが、自らのルーツを探り、祈りを捧げるために訪れるのだという。昨年7月にはオバマ大統領一家が同地を訪ねている。ミシェル夫人のルーツもまた、この地にある。


以下、当時のオバマ大統領のコメント記事の抜粋。
「われわれは邪悪さを容認し、それを支持することがあるし、正しいことだと思って自ら手を染めることさえある・・・恵まれた環境で育った2人の娘にとっては、歴史のなかで人間がいかに残酷になることがあるか知ることが重要だと思う。2人には今回の訪問を通して抑圧や残酷な行為と戦うことへの責任感を持って欲しいと願っている・・・ここは深い悲しみの場所であると同時に、アフリカ系米国人の大半が経験した旅の起点でもある。アフリカ系米国人として特別の感情を覚える」


奴隷貿易は、ガーナだけではなく、アフリカのほとんどの人々に関わる生々しい歴史。どんなに想像力を働かせても、わたしとは身に迫るものが違うのだろうーー一緒に訪ねた同僚のケニア人やエチオピア人が一様に言葉を失うのを見て、それは今のアフリカを理解する上でも決して忘れてはいけない記憶なのだ感じる。