sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

ハイチのこと

sayakot2010-01-15

わたしの住んでいるチェトゥマル村はカリブ海に面していて、何気にキューバやジャマイカ、そして、今大変なことになっているハイチとも、地図上は比較的同じようなサークル上に位置しています。それゆえ、今回ご心配のメールを複数いただきましたが、実際のところは、メールをもらって初めて事態を知ったような有様で、揺れを体に感じることはありませんでした。


ただ、ちょうどプロマネのYさんと同僚のTさんが、ハイチのあるイスパニョーラ島の東半分であるドミニカ共和国に出ていたので、びっくりして安否確認メールをしましたが。もっとも、すぐに返事が戻ってき、大きな揺れは感じたけれど被害は特にないとの連絡。


以来、ほっとして、すっかりフォローが出来ていなかったわけです。言い訳になるけれども、まずTVをつけても、現地の報道がほとんどない。CNNでもあったら違うのだろうけど、わたしの家のケーブルテレビは、CNN以外の多様なチャンネル網で、昔懐かしいハリウッド映画とメキシコ版ソープオペラ、スポーツ番組を熱心に放送し続けるだけ。
先ほどもローカルのニュース番組をずっと追っていたけれど、報道されたのは、地元で起きた麻薬事件と、メキシコシティ日本大使館に、クジラ保護を訴える動物愛護団体メンバーが、真っ赤なペンキを体に塗りたくってデモを行ったというニュースのみ。わたしのサーチの仕方がわるいのか、なんなのか、とにかく状況がよく分からない。


しかも今、チェトゥマルを始め、メキシコのあちこちに寒波がやってきて、ここしばらく、とにかく寒い。気温でいえば16-18度とかあるのだけれど、なにせここは、家にはもちろんホテルやオフィスにも、暖房設備がない地域なので、一日、体を温める術がない。バスタブもないし、シャワーのお湯もいつも心もとないし。この辺りは、めったに寒くなることがないので、通りを見ても、みんな上に着る服がなくて困っている様子。無理してTシャツ一枚の人から、モコモコに着こんでいる人まで、統一感なし。口を開けば、「こんなに寒いの、経験したことがない」。
ご近所ハイチの話は、話題にあがらない。チェトゥマル村は、今日も“tranquila(平穏)”。


そんなこんなで、情報に乗り遅れ、今ネットで少しずつ状況を把握し、ようやく事態の深刻さが飲みこめた次第。。。


ハイチには、大学院時代の友人Tがいる。平和学の基礎コースが同じだったのだが、出国がスムーズにできなかったせいで、授業の期間が半分も終わったころに、遅れて入ってきた。英語が苦手でずいぶん苦労をしていたけれど、長く環境教育に情熱を燃やしていた彼は、まともなゴミ収集システムさえ存在しない自分の国のあり様を嘆き、自分の手で国を良くしたいのだと常々言っていた。当時わたしには、ゴミの収集システムがない社会というものがどういうものなのか、聞いていても意味がよくわからなかったのを覚えている。彼の国が、「相当貧しい」とはなんとなく分かったけれど、それが西半球最貧国の1つで、「失敗国家」ランキングで北朝鮮の上をいくとさえ言われていることは知らなかった。


コスタリカを発つ日の直前、彼は通学バスの隣に座ったわたしに、小さな聖書を手渡してきた。
“You have love and intelligence. What is lacking with you is faith.”
大きな体にまっすぐな目をした彼に大真面目に言われて、ずいぶん面喰ったのを覚えている。熱心なカトリック教徒だった。


今回、メールをしてみたけれど、当然返事は返ってこない。
無事でいてほしい。きっと彼のことだから、被災者のために昼夜関係なく、汗まみれに働いているような気がする。メールの返事なんて書くどころではないだろうし、インフラの復旧は当分先になるだろう。


天災は抗いようのないものかもしれないが、脆弱な国家基盤のせいで、人々に安全な建物が用意されなかったり、必要な物資や医療支援が及ばなかったりするのであれば、それは人災でもあって、同じ地震が日本に起きていたなら、状況はまた、違ったはず。もちろん、日本でも、途上国でも、人の痛みや悲しみの重みに変わりはないけれど、だからこそ。



阪神大震災から間もなく15年。
私の親の実家は、被害が最も大きかった神戸市東灘区。寒い寒い冬の日、怖い顔をした両親が、水やら食料やらをもって、神戸に乗り込んでいったのを思い出す。


今の神戸は、そこで育っていないわたしから見ると、その影もないほどに復興したけれども、いまだに復興住宅で孤独死を迎える高齢者の話はローカルの新聞欄に頻繁に出てくるし、買い物客で賑わう元町のアーケード街も、昔ながらの店は消え、震災前とはずいぶん変わってしまったと祖母がよく話してくれる。同時に、祖母が忘れないのは、自らも被災しながら、凍える通りの人々に熱いお茶を無料で配り続けたお茶屋さん。何もなくてお困りでしょうと祖母に商品の箸を10膳手渡し、歩き去っていった木曽の行商人さん。
そうした救いが、ハイチの人々の心にも届くといいけれど。



◆国際NGOプラン・ジャパン
http://www.plan-japan.org/topics/100113hait-eq/index.html

◆ekokoro
http://www.ekokoro.jp/urgency/urg-6.html