sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

卵と壁

sayakot2009-02-22

作家の村上春樹さんが、イスラエル文学賞に選ばれ、先日エルサレムで開かれた授賞式に出席。そのときのスピーチで、イスラエル政府によるパレスチナ攻撃について批判し、話題を呼んだ。


受賞にあたっては、イスラエルの政策を擁護することになる、と市民団体などが氏に賞の返上を求め、さもなければ作品のボイコットに訴えるという圧力もあったそうだ。


授賞式のスピーチで、村上氏は“I chose to come here rather than stay away. I chose to see for myself rather than not to see. I chose to speak to you rather than to say nothing.(私は、距離を置くよりも、ここに来ることを選びました。目をつぶることよりも、自分の目で見ることを選びました。そして、何も言わないことよりも、あなた方に話をすることを選びました。)”と述べ、イスラエルの聴衆に語りかけた。


村上氏は、「高くて硬い壁(a high, solid wall )」と、「それにぶつかって壊れる卵(an egg that breaks against it)」という表現で、戦闘機や戦車で武装したイスラエル軍と、無力に殺されていくパレスチナ人民を喩えた。高くそびえたつ「壁」は、パレスチナ人の必死の抵抗も、一部イスラエル市民の和平への願いも、世界中の批判の声をも容赦なく遮断してしまう。そしてその間も、無防備な「卵」たちは、ぐしゃりぐしゃりと無残に潰されて、もはや区別のつかなくなった他の無数の殻と一緒に、埋もれていく――きっと村上氏から受賞の喜びを聞くことを期待してやってきた人々の頭の中には、そんな衝撃的な映像がぱっと広がったに違いない。


村上氏はさらに、「卵」は、脆い殻で精神を包んだ「個人(individuals)」であり、「壁」はそれに立ちはだかる「システム(System)」のメタファーでもある、と続ける。(「システム」という言葉は非常に漠然とした言葉で、朝日や日経新聞ではたしか「制度」や「体制」というように訳されていたように思うけれど、わたしは、制度・体制、宗教、イデオロギーそういったもの全てを含むのではないかと勝手に解釈している)。いずれにせよ、「卵」と「壁」は、イスラエルパレスチナという地域限定的なコンテクストだけで語られているのではなくて、わたしたちの生きている社会の構図でもある。


「システム」は人を守りもするが、時に、人々の心に入り込み、支配し、そして冷酷に、残虐に、組織的に他者を殺させもする――。そしてそのシステムを作り出すのは人間自身であり、私たちは決してシステムに心を奪われてはならない、氏はそう警鐘を鳴らす。


ふと、自分の生きている社会を考えてみる。
外の出来事に何のつながりも感じられず、身内の閉じた世界の中だけで、急かされるように動き続ける現代日本社会で生きるわたしたちも、知らず知らずのうちに、遠くの誰かの怒りや苦しみ、悲しみの原因に加担していないだろうか。彼らの声なき声に、耳を塞いでしまってはいないだろうか。


スピーチの中で、最も印象に残っているライン。


"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg. Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg. Someone else will have to decide what is right and what is wrong; perhaps time or history will decide. If there were a novelist who, for whatever reason, wrote works standing with the wall, of what value would such works be? (高くかたい壁と、それにぶつかって壊れる卵の間で、私はいつでも卵の側に立とう。そう。壁がたとえどれだけ正しくとも、卵がどれだけ間違っていようとも、私はいつも卵と共にあろう。その善悪を決めるのは恐らく歴史や時間であって、私ではない。もし、この世に、それがどのような理由であれ、壁の側に立って作品を書く小説家がいるとしたら、その作品に何の価値があるだろう?)”


著名な作家や映画監督などが、政治的アピールのために賞の受賞や式の出席を拒否、そういったニュースはその都度、それなりに話題を呼ぶものだ。(実際、エルサレム賞も過去にそうしたことがあった。)だが多くの場合、それは一過的なものに過ぎなくて、誰の心にも残らないまま、結局、本人の自己満足に終わることが多いのではだろうか。そうした中で、今回の村上氏のメッセージには、とてつもなく深い価値があったのではないかと思う。欧米言語以外での作家としては初の受賞、というその輝かしい栄誉を「武器」に、エルサレムというセンシティブな場所で、敢えてイスラエルの人々に語りかけ、そして世界に向けて、今一度、その人間性に回帰することの大切さを訴えたのだから。


村上さんのスピーチの全文は下記で読めます。
http://haaretz.com/hasen/spages/1064909.html



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今回は1か月半ぶりの更新でした。
帰国してからというもの、なかなか筆が進まなくなっていましたが、村上さんの今回の記事を見つけ、書かずにはいられなくなりました。感謝です。


余談の余談だけど、村上氏にはもともと、(勝手な)親近感を感じてます。「華麗なるギャッツビ−」と、「ライ麦畑でつかまえて」に対する氏の思い入れにもなんとなく共感するし、あの抜けた感じの文体も好き。あとは、氏が母の高校時代の部活の後輩だったこととか。一番好きな作品は、ベタだけど「ノルウェイの森」です。


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写真は、死海の岸より。