sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

マスバテ島訪問: 後編

sayakot2008-05-23

エリックと名乗るその男の家は、バンの乗降場所から、1分ほど歩いた小さな家だった。
ドアは開け放しで、中に入るなり、彼は、家にいた彼の甥だという二十歳くらいの青年に、
コーヒーとビスケットを用意するよう言いつけた。そして、ソファにどすんと腰を下ろすと、お前たちはどこから来たんだ、ここで一体何をしているんだ、どこに泊まっているんだ、携帯は持っているのか、と矢継ぎ早に質問してきた。本当に彼はPの知り合いだろうか?どうしてこんなにわたし達のことを詮索するのだろうと内心そんなことを勘ぐりながら、一つ一つ質問に答えていると、ようやく、Pから携帯にメールが入る。


「今どこだい?知り合いの家に寄っていたら、少し遅くなりそうだ。今から向かうよ」とのこと。こちらの気も知らずに、ずいぶんお気楽なその内容に、思わず脱力する。あなたのことを知っているというエリックという人の家に招待されたので、そこで待っている、そう伝えると、「ああ、彼はいいヤツだ。彼のところにいるなら大丈夫。」というメールが届いた。


20分後、わたし達は無事にPと合流した。


1時間ほどエリックの家で雑談をした後、Pに、この地域の農民組合のリーダーが近くに来ているから、少し話をしていくかいと誘われて、村の小学校へと向かう。子供たちが数人、大きな木の陰に隠れて、クスクス笑いながら、こちらを見ている。牛が放たれた校庭にイスを円に並べて、即席の青空座談会が始まった。テーマは、フィリピンでここ数ヶ月間騒がれている、「コメ問題」だ。


無駄な米の消費を節約するために、大手ファーストフード店で、「半ライス」メニューが登場したり、安価な政府米を購入するために低所得層の人々が炎天下の中、長蛇の列を作る光景がメディアで度々報道されたり、事態は人々の日々の生活に深刻な影響を及ぼしている。ただしこれは、台風や日照りなどの天災による米不足というよりも、これまでビジネスセクターへの投資ばかりに注力し、労働人口の約4割を占める農業部門の生産力向上に対する努力をおざなりにしてきた政府の怠慢、価格の値上げを狙って米を抱え込む流通業者の存在、そして汚職スキャンダルに集中した世論の注意を拡散させるためのアロヨ大統領の画策に因るものだと、その本質を人災とみる見方が最近は国内でも広まりつつある。


話題が、フィリピン政府が先日、ベトナム・米国などからの外米の輸入を拡大したことに触れると、農民組合のリーダーであるGと、地方政府の農業部門の役人であるJは、口を揃えて、「問題は、米の流通を牛耳る業界カルテルと、グローバル化の流れの中で、諸外国に迎合してばかりの政治家たちだ。コメは国内にちゃんとあるんだ。政府が我々をもっと本気で保護しようとすれば、俺たちだってもっともっと安い米を作ることが出来るのに。それなのに、どうして外米の輸入を拡大する必要がある?どうして俺たちのことをもっと見ようとしない?日本との経済連携協定EPA)だって同じだ。あんなに不平等な条件でも、政府は呑んでしまう。そして憂き目を見るのは結局、国内の俺たちのような農民なんだ――。でも、俺たちは泣き寝入りなんかしない。だから自分たちでこうして組織を作って、自分たちの権利を守るために、声を上げていくのだ――。」


フィリピン最貧地域といわれるマスバテ島の小さな片田舎の小学校で、人々が、自らの置かれている状況を、「グローバリゼーション」という大きな時代の流れの中で理解し、位置付け、自らの言葉で語っていることに、正直わたしは驚き、言葉にならない感動のようなものを覚えた。


Pによれば、フィリピンにおける「プラン・インターナショナル」の重要な活動の一つは、「教育」や「医療」やその他、日々の生活に必要な基本的行政サービスや「情報」へのアクセスをもたない、辺境に住む人々の組織化だそうだ。それは、人々が自らの権利について学び、それを獲得するために、あるいは守るために、自ら立ち上がっていけるだけのキャパシティを養うということだ。同席していた、村の女性グループの代表というエミリーは、30歳半ばほどの、穏やかだがとても芯の強そうな女性で、低所得世帯の女性たちで最近始めた、アヒルの共同飼育プロジェクトのことを話してくれた。卵を町へ売りにいき、ささやかな家計の足しにするのだそうだ。



マスバテシティに戻る公共ジープ乗り場で、Pがふと、良かったらバイクの後ろに乗っていかないかいと提案してきた。車の窓越しから見るマスバテとは、きっと違うはずだ、と。人生初の2人乗りに、ガタガタの65kmの行程は少し長すぎる気がしたが、そうすれば、L社のプロジェクト・サイトも、通り過ぎるくらいはできるかもしれない、そんな思惑が頭を過ぎり、お願いすることにした。バイクの上は、想像以上に気持が良かった。風をビシビシと感じながら、横目に流れていく風景を味わった。通り沿いの村人たちも、青いHONDAのバイクはPのものだと知っているのだろう。ほんの数時間前、村でわたし達に向けられた警戒心が嘘のように、子供も大人も、無邪気に手を振ってくる。あれは君に振っているんだよとPは言う。「君たちが来ることを事前に伝えておいたからね。そうでなければ、皆が不安がってしまうから――。」


途中、Pが少しだけ、バイクのスピードを緩めた。NPAがわたし達に訪問を禁じた例の村を、出来るだけゆっくりと通り過ぎようとしてくれたのだ。残念ながら小学校は見えなったが、どうやら行きに、母親が赤ん坊をタライで水浴びさせていた、あの村のようだった。その様子は、他の村とまったく変わらないように見えた。


「NPAはこの辺りにいるの?」Pの肩越しにそう聞くと、彼は頷いて、「数人いるらしいけどね。でも僕も誰がメンバーなのかは知らないよ」との返事。そして、「僕の仕事は、人々の生活が少しでも良くなるようにお手伝いするだけだから、村がどのグループに属していようと、関係ないんだ。」と続けた。この地域の人たちは、日々どれくらい身の危険を感じているものなのかしら、と再び質問してみると、「政府とNPAとの銃撃戦は決して珍しくはない。住民が犠牲になることもある。でも、彼らには逃げる場所なんてないんだよ。それでも人々は、互いを思いやりながら、笑顔を忘れずにたくましくこの土地で生きているんだよ。」と、Pは静かに言った。


「そういう環境で仕事をするのは怖くない?」今度はそう尋ねると、
「『プラン』は、NPAからも、政府からも信頼されているし、何より、地域の人々に必要とされているからね。それに、コンフリクトというのは僕たちの日常の一部なんだよ。学校を建てるにせよ、何にせよ、どんなプロジェクトにも、その過程に「衝突」はつきものだ。例えば、日中、学校に行かずに農作業に出ている子供たちに、僕たちが教育を受ける権利のことを教えれば、その子供と両親との間に摩擦が生じることもある。村の女たちに、女性の権利を教えれば、それを面白く思わない男たちとの間に、緊張関係が生まれたりもする。僕たちの仕事は、コミュニティに深く入り込んで、人々の間に立って、そうしたコンフリクトを調整することなんだ。」


わたしは、風の音で途切れ途切れになりがちなPの言葉を、一言も聞きもらさないように、必死だった。


「例えば、住民たちとミーティングを開くと、中には銃を持って参加しようとしてくる者がいる。この地域の人間にとって、銃はとても身近なものだからね。でも僕は、いつもこう言うようにしているんだ。『子供たちに銃を見せたらいけない。集会の場に銃は持ってこないでくれ。僕たちは戦争をしているんじゃない。この村を平和にするために、我々は集まっているのだから。』ってね。そう言い聞かせれば、大抵の人間はちゃんと聞いてくれるものだよ。」と、Pは言う。もちろん中には、それを面白く思わない人間もいるけどね――、と付け加えながら。



「プラン」のすごさは、その徹底的な現場重視・住民参加型のアプローチにある。スタッフは、複数の担当コミュニティを行き来し、現地で人々と共に生活をするのが基本だ。マスバテは、ビコール語、セブ語、イロイロ語、という複数の現地語が混在するエリアであるため、Pも、それぞれのコミュニティに合わせて、言語を使い分ける。それぞれの言葉はまったく違うが、「一緒に生活していると、自然に覚えるものなんだよ」と、P。一般に、「フィリピン語」として知られるタガログ語は、フィリピンの「国語」であると同時に、地方の人々にとっては、マニラを中心とする、都市部の「支配層の言語」でもあるからだ。そして、Pがそうした話をしてくれている間にも、彼の携帯には、アドバイスを求める住民たちからのメールが何件も届いているようだった。そのうちの一つは、初等教育を修了しないまま、家の事情で町に働きに出ざるをえなくなった15歳の少女から、夜間の代替教育を受ける方法を尋ねるものだった。



マスバテシティのホテルに戻り、少し一休みをしてから、夜、Pともう一人の「プラン」のスタッフJと合流し、彼らが案内してくれた、少しお洒落なレストランで乾杯する。時々、こういう静かな場所で、数人だけでビールを飲むのが、僕のささやかな息抜きなんだとPは、今日初めて、ふう、と小さく息をついた。聞けば、彼はつい2年前に結婚し、先月、初めての子供が生まれたばかりなのだそうだ。奥さんも赤ちゃんも、ルソン島南部の彼の故郷にいるため、家族に会えるのは月にたった2回だけとのこと。これだけ情愛深い彼が、愛する家族と離れ離れであることは、どれだけ辛いことだろう。それでも彼は、「僕にはまだ、この島の人々とやっていかなければならないことが沢山ある――。そしてありがたいことに、妻もそれを分かってくれているから――。」と、にっこりとした。


夜、ホテルまでわたし達を送り届けてから、Pは言った。


また、いつでも戻っておいで。だけど次に来るときは、少なくとも1ヶ月は滞在してくれないとね。僕たちの活動の全体像を掴むには、最低限それだけ必要だから。遠慮なんて無用だよ。ぼく達はもう、兄弟であり、姉妹なんだから――。彼は、わたしを引き寄せて、固く握手した。


ああ――。フィリピンの人々のこうした深い情愛に、わたしはたまらなく弱いのである。
この国に生きる人々の、この飾らない温かさに触れれば触れるほど、わたしは多分、一生、この国と精神的に自分を切り離すことはできないだろうと思う。もちろん、今の自分に一体何ができる?と考えだすと、またまったく違うお話なのだけれど。



フィリピン滞在も、残すところ、あと1ヶ月。