sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

マスバテ島訪問: 前編

sayakot2008-05-20

4月22日の稿で、以前わたしが東京で働いていたL社が、CSRの一環として、
フィリピン最貧地域であるマスバテ島の小学校の教室建設プロジェクトを発足させたことをご紹介した。そして、このプロジェクトの現地パートナーとなったのが、
途上国の子供たちに対する教育普及事業で名高い国際NGO「プラン・インターナショナル」だった。いつかこの土地を訪ねることができたら――と、漠然と夢見ていたら、先週末、日本から友人が訪ねてきたのを期に、思いがけず実現してしまった。


マニラ―マスバテ間は、Asian Spirit社が唯一、1日に1便運行している。
50人も乗れば満席になってしまうこの小さなプロペラ機。飛行時間はわずか1時間強に過ぎないが、運賃は往復8000P(約2万円)と、フィリピンの物価を考えると、かなりお高め。時間の制約さえなければ、一度セブまで飛んで、そこからボートで向かう方がずっと経済的だ。


朝6時に出発した飛行機は、7時過ぎに島の中心地であるマスバテシティに到着。こぢんまりとした待合所でチェックインした荷物を待っていたら、キラキラ輝く腕時計をつけたお洒落なフィリピン人ギャルが、「あなた日本人?どうしてこんな辺ぴなところに来ちゃったわけ?ダイビングでもするの?」と、外国人なんて私にはちっとも珍しくないのよ、そんな表情で、人懐っこく話しかけてきた。
きっと信じないだろうなと内心思いつつ、「フィリピンの田舎の生活を見てみたくて」と答えると、彼女は、案の定、目をぱちくりさせて、「この島の村なんて、汚くて貧しくて、本当に何もないんだから。わたしは両親に会いにきただけよ。顔だけ見せたら、すぐマカティ(マニラの高級ビジネス/住宅エリア)に戻るわ。わたしの夫はアメリカ人なの。」と、得意げな様子で言った。やっぱりマニラの方なんですね。あなたのファッションが素敵だなと思っていたんです、わたしがそう言うと、あらやだ、ありがとう!と、彼女は急に照れたようににっこり笑い、素敵な滞在になるといいわね!と、わたしの肩をポンとたたいて、颯爽と去っていった。


さて。今回の旅は、個人的なスタディー・ツアーという形で、以前マスバテの「プラン」で働いていた、フィリピン人同級生Mの人脈を借りて実現した。右も左も分からないわたし達を空港まで迎えにきてくれたのは、「プラン」のコミュニティー・コーディネーターであるP。32歳になったばかりという彼は、ルソン南部のビコール地方ナガの出身で、黒目がちの優しい目をした青年だった。背は小柄だが、肌はよく日に焼け、よく見るとかなりがっちりと引き締まった体をしている。彼の活動拠点が、冷房のよく効いたオフィスではなく、海岸沿いや山奥の離村群である証拠だ。


空港から宿までは、Pの案内で、市内を歩いて向かう。島の中心地と言えど、当然、高層ビルやコンビニなどは一つもないが、通りにはジープやサイドカー付モーターバイクであるトライシクルなどがひっきりなしに行き交っていて、マーケットでは大きなサックに入れられた豚が、生きたまま売られていたり、町は活気に満ちている。


一泊6ドルほどのささやかなホテルでチェックインを済ませ、1階の小さな食堂で、改めて、今回のわたし達の旅の目的が何であるのか、Pに説明する。そもそも観光客が気軽に訪れるような場所ではないし、また、前職の会社のCSRプロジェクトの見学といっても、わたし自身がドナーというわけでもまったくないので、こちらの意図を明確に伝えるのは必ずしも容易ではなかったが、要は、フィリピンで「最も貧しい」と言われているコミュニティで、人々が一体どのような暮らしをしているのか、また、昨今騒がれている食糧危機の影響が、どのような形で個々の世帯に表れているのか、そして、自然災害・共産ゲリラNPAと政府間の抗争・慢性的貧困という困難な環境の中で、ある意味「部外者」であるNGOが、どのようにコミュニティに入りこみ、そして「教育」を軸にどのような活動を行っているのか、是非この目で見てみたい、人々の話を聞き、感じてみたい、という思いを必死に伝える。


「君たちの滞在が少しでも有意義なものになるよう、ここマスバテの日常の生活を感じてもらえるよう、最善を尽くすよ。」Pはにっこりと、そう言ってから、少し言いにくそうに、「ただし――」と続けた。それは、今回わたしが最も楽しみにしていた、L社のCSRプロジェクトの現場見学について、NPAからの許可が取り消されてしまったというのだ。「1週間前、彼らに最初に連絡をしたときは問題ないと確かに言われたのだけれど、今朝になって急に、申請は1ヶ月前に行うように、という連絡があったんだ――。」もしかしたら、近いうちに政府軍とやりあいが起こるのかもしれない、とPは気まぐれな山の天気を予測するかのように言った。


NPA?連絡?許可・・・?
たしかに、旅の事前アレンジをしてくれた友人Mには、マスバテ島の土地は、下記の4カテゴリーに分類できるということを聞いていた。

  1. Government Controlled Area: 政府がコントロールを握っている地域(通常の町)
  2. NPA Influenced Area: NPAの影響を受けている地域(住民の多くがNPAを支持している)
  3. NPA Infested Area: NPAのメンバーが出没する地域(住民がNPAメンバーをかくまっている)
  4. NPA Controlled Area:NPAがコントロールを握っている地域(NPAメンバーが町を闊歩している)

だが、まさかこれほど身近なレベルで、自分がNPAの存在を実際に感じることになるとは、正直あまり予想していなかった。


どうやらPの話から察するに、訪問する予定だったエリアは、上記の2〜3のレベルに入るらしい。内心、大丈夫かなと思いつつ、
「この地域の事情は僕が一番把握しているし、君たちの安全は保障するから。リスクはとらないよ。」というPの頼もしい言葉を信じて、わたし達は急遽予定を変更し、マスバテシティから65km離れた、彼の担当エリア内の別の村を訪ねることになった。


「僕はバイクで先に行って待っているから。何があっても、絶対に途中で降りたりしちゃいけないよ。何かあったらすぐに僕に連絡するように―。」Pは確かめるように何度もそう言って、バイクで軽快に走り去り、わたし達は、乗り合いのミニバンでその後を追った。

アロヨ大統領が数年前にこの島を訪れた際に舗装されたという道路は、時々、土と岩がむき出しになって現れ、その度に車はガタガタと揺れ、土ぼこりが舞った。犬や鶏が時々急に飛び出してきては、ヒヤっとする。苗が植えられて間もない田んぼでは、水牛の上に5才くらいの子供がまたがって遊んでいる。大きなたらいで、母親が赤ちゃんに水浴びをさせている。その情景は、言葉にならないほど美しく、懐かしい。


車窓から見える海沿いの村の小さな家々は、そのほとんどがニッパヤシの葉で出来たかやぶき屋根だ。「一応」高床式の構造をしているので、ぱっと見にはお洒落な水上コテージ風と見えなくもないが、台風の多いこの島で、人々が何故、これほど海岸線ギリギリの場所に、追いやられるように生活しているのか、疑問を感じずにはいられなかった――後でPに聞いた話によると、マスバテの土地の多くは、一つの大地主一族によって占有されていて、自分の土地を所有できない人々が数多く存在すること、そして、生活の糧をほとんどすべて海洋資源に依存する零細漁民たちに、多くの選択肢は存在しない、ということだった。「彼らには、他の場所に移動するために必要な資金も情報も、何もないんだ――。」やるせなさそうに、Pは言う。


1時間半後――。わたし達の乗ったバンがようやく終着点に到着する。だが、先に待っているはずのPの姿が見えない。降ろされた狭い通りで、周囲の住民たちの不審そうな視線を感じる。一体ここはどこなのだろう―?しばらく立ち往生していたら、同じバンの後方に座っていた、人の良さそうな中年の男が、「君達どこへ行くんだい?」と、話しかけてきた。普段であれば、フィリピンのどこででも始まる、なんてことのないフレンドリーな会話なのだが、「絶対にどこにも行くな」というPの忠告の後だけに、緊張感が高まる。「プラン」の友人Pと待ち合わせているのだと簡単に説明すると、彼はぱっと顔を明るくして、「Pのことは良く知っているよ。アイツは頭もいいし、優しい男だ。私は隣村の教師で、「プラン」のプロジェクトにはよく世話になっているよ」と、声をはずませた。さらに彼は、自分の家がすぐ近くにあるから、そこで待っていればよいと言う。なに心配する必要はない、ここではお互いがお互いのことを皆知っているのだから。と、せっかちな彼はすたすたと歩き始めてしまった。


お互いがお互いを知っているコミュニティとはいえ、それがNPAコントロール下の村だったら、あまり笑えないなと思いながら、行き場所のないわたし達は、仕方なく彼の後ろをついていくことにした。まあ、仮にこのおせっかいな小太りの彼がNPAのメンバーだとしても、貧しい小作農民たちの解放を叫ぶ彼らであれば、(たぶん)普通のフィリピン人とそう変わることはないのだろうし。


(後編へ続く・・・)

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写真は、マスバテシティの海辺で、浅瀬を歩く親子。