sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

マスクの後ろで 〜CSR の本当の顔〜

sayakot2008-05-08

CSR(企業の社会的責任)という言葉が、様々なメディアで聞かれるようになって久しい。
いまや、CSRなしには今後の経営戦略を語れないほど、企業の中での重要性も社会からの
関心も、これまでになく高まってきている。だが現実には、その効果や正当性については
イマイチよく分からない,というのがほとんどの人の感覚ではないだろうか。


日本総研CSR応援サイト『CSR Archives』によると、企業がCSRを行う背景には、
下記の4つがある。

  1. 「リスク・マネジメントの強化(コーポレートガバナンスに対する意識の向上)」
  2. 「ブランド価値の向上」
  3. 「優秀な人材の確保(社会に対する企業のビジョンの明確化を通じて、他社と差別化)」
  4. 「市場からの評価(企業の業績予測のための、ノン・フィナンシャルインディケーターとして)」


企業の豊富なリソースが社会に何らかの形で還元され、さらにそれが企業に対し、PRやその他多くのメリットをもたらすというのがCSRの全側面であるならば、そこには「企業」と「社会」の美しいWin-Win関係を見ることができる。だが一方で、慈善活動を企業の利益創造活動の一環に位置づけることに対する心理的抵抗や、その有効性への疑問、そして、そもそも企業の社会貢献活動の本質は「納税」にあるべきだという見方も、多く存在する。


そして、今回ご紹介したいのは、CSRが、社会にポジティブなインパクトをもたらすどころか、その巧みなイメージ戦略で、悪質な企業活動の実態を覆い隠し、自由な企業活動に対する法的規制を免れるのに貢献しているのだ、という手厳しいCSR懐疑論だ。そしてその代表として知られているのが、イギリスを拠点とした国際NGO であるChristian Aidが2004年に発表した、“Behind the Mask: The real face of corporate social responsibility(『マスクの後ろで:CSRの本当の顔』”というレポートだ。この報告書には、「企業市民“Corporate Citizenship”」を掲げ、CSR活動に積極的な世界的大企業であるシェル(Royal Dutch Shell)、コカ・コーラ(Coca-Cola)、ブリティッシュ・アメリカン・タバコ(British American Tabacco)の3社がケーススタディとして取り上げられている。


中でも、ナイジェリア南部のナイジェリア・デルタ地帯で大規模な石油採掘事業を展開するシェルには鋭い矛先が向けられていて、
レポートは、シェルのCSRプロジェクトが、同社の度重なる石油流出事故による周辺コミュニティに対する深刻な水質汚染、大気汚染、土壌汚染を覆い隠し、環境や人権擁護を目的とした企業への規制を逃れるために利用されているのだと糾弾する。そしてその証拠に、CSRの一環として地域に提供されたまま、誰にも利用されずに廃屋と化してしまった小学校や、医療施設、郵便局などの例が挙げられている。Christian Aidの根深い不信感の背景には、90年代、シェルが同国の独裁政権に支払っていた巨額のリベートが、石油産業に対する住民の抗議行動と民主化運動に対する激しい弾圧に利用され、95年には、人権活動家の死刑執行にも秘密裏に関与したとして、同社が国内はもちろん国際的に激しい批判にさらされた、という血ナマぐさい経緯がある。


企業の「自発的なCSR(voluntary CSR)」には気をつけろ---。少ない投資で利益を最大化することを命題とする企業が、環境や
人権保護に関する最低限の基準を守ることを、その善意に全て依存するのは不適切だ――。企業の暴走を食い止めるためには、国際的な規制が不可欠なのだ、とこのレポートは締めくくられている。


この衝撃的なレポートを、一体どのように解釈したらよいのだろうとしばらく消化不良で困っていたら、実は先日、個人向けSRI(Socially Responsible Investment)ファンドの総合サイトであるSocial Funds.comで偶然、このレポートに対する、「応援」記事と「反論」記事が並べて掲載されているのを見つけた。


反論記事は、Christian Aidのレポートはシェルが同地に展開する、900案件、67億ドルにも及ぶCSRプロジェクトのうち、不運にも成功しなかった、ごく一部の例をとりあげて槍玉にあげているにすぎない、というものだ。更に、企業の自主的なCSR活動がもたらしうるポジティブな可能性を全て否定し、安易な規制ありきの流れを作ることの危険性を鋭く指摘した。


Christian Aidレポートの正当性は、正直なところ、わたしには判断がつかないが、単純な善悪の二元論では、CSRがもたらしうる、ポジティブなインパクトの大きさと、同時にそのリスクの複雑さを捉えきることは不可能であるし、何より、企業と市民社会の断絶を、より深めてしまうだけのように思う。


しかし、このレポートの貢献を、完全に無視することはできない。それは、企業の経済活動に、無条件の信頼を置きがちなわたし達に対する、警鐘だ。昨今、日本でも、有名企業の不祥事がしばしばメディアを賑わせているが、そうした報道のほとんどは、個人情報の漏えいや高級料亭での料理の使いまわしなど、自分達が実際に被害者になる可能性がある事柄に関するものではないだろうか。逆に、自分の利害に一切関係のない世界からやってくる商品やサービスの背景に、一体どのようなストーリーが存在するかについては、誰もが無関心だ。そして、この無関心“アパシー”こそ、遠く離れたどこかの国で今も起きている、児童労働や、不当な低賃金労働、環境破壊といった企業の暴走に貢献しているといっても過言ではない。


もちろん、企業だけが常に「悪」なのではなくて、企業の経済活動からの恩恵を優先して自国民を守ろうとしない現地政府や、それを見過ごしている国際社会にも大いに問題があるのだが、そうした企業の活動をもっとも効果的に抑止できるのは、結局、一人ひとりの消費者の声なのではないかと思う。そしてそういう意味で、わたしは「お客様第一」「クライアント・ファースト」という言葉にさえ、警戒心を覚えずにはいられなくなる。もちろんそれが上質のサービスを世に提供する上で重要な要素であることは理解できるが、それがあたかも一流の企業人の美徳であるかのように作用して、その背景にあるもっとも大きな何かに盲目になることを、許してはいけないと思うのだ。


◆◆◆
写真は、地元コミュニティで家々を回っていた、ストリートチルドレンの少女。