sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

メーデーの日に。

sayakot2008-05-02

5月1日は「メーデー(May Day)」。
フィリピンでは、学校も企業も官庁も、国中がお休み。


Wikipediaによると、「メーデー」は、1886年アメリカのある労働組合が、8時間労働制を要求するデモンストレーションを行ったのが起源らしい。以後、「労働者の権利を主張する運動」、また、「国民がその時々の要求を掲げ団結と連帯の力を示す日」として、世界的に広がった。


わたし個人の経験としては、今まで、手帳のカレンダーに印刷された「メーデー」の文字が目に入ったとき、特別な何かを感じたこともなかったし、短い社会人時代を振り返ってみても、
怒涛のように過ぎる日々の中で、その意味について何か思考する余裕もなかった、というのが正直な感覚。だが、そもそも、「労働者の権利」だとか何とかということを、それほど切実に考えさせられる必要もなく、無自覚に働くことができていたということ自体、ある意味で「恵まれた」ことに違いない。


日本では「メーデー」は祝日ではないし、そもそも注意を払っている人も少ないと思う、と言ったら、フィリピン人やインドネシア人の友人に驚かれた。そして、「まあ君たちには切実な問題じゃないだろうからね――」と、ニヤリとされた。学生時代から、毎年メーデーに国内各地で開催されるデモに参加しているアクティビスト達にとって、メーデーは、一年でも特に血の騒ぐ日のようだ。


そして朝。フィリピン人の友人Mから、こんなメールが届いた。


「今日は労働者の日。ガードマンに微笑みかけ、タクシー運転手の話を聞き、通りの物売りたちに感謝をしよう。彼らこそ、この国を前に動かし、国家の礎を築いている人々なのだから。労働者たちの抗争(struggle)に参加して、シンパシーを感じてほしい。彼らの賃金の向上と、人道的な労働環境と、公正な待遇と、意思決定プロセスへの参画のために。」


彼自身は、地元ビコール地方ナガで開催される労働組合のデモンストレーションに参加するために、前日から夜行バスで現地入りしていた。



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「労働者の権利」は、日本人にはあまりピンとこないテーマだ、と冒頭で言ったものの、かといって、このグローバル社会において、途上国の労働者の抗争が、わたしたち日本人とまったくの無関係であるはずがないのは、世界各地に展開する日系企業や、日本にも拠点を置く多国籍企業の存在を挙げるまでもない。


前回のテーマとの関連でいうと、企業の「社会的責任」は本来、お飾りの「CSR」としてではなく、「実業」と「納税」によって果たされるべきだ、という主張は、基本的にそうだと思う。ただしそれには、その企業の経済活動の全てのプロセスで、あらゆるステークホルダーたちに対し、「本質」的に社会的な責任を果たしていることが、前提としてあるべきではないかとも思う。
例えば先日、ひょんなことから、在フィリピンの、ある日系企業の経営者から、こんな発言を聞いた。


「フィリピン工場で女性を多く雇用する理由?男性労働者のように、すぐに組合に訴えたりしないから、扱いやすいんだ――。」


競争の激しい製造業で、経営戦略の一環としてのHR戦略の重要性はよく分かる。しかしそれが、普遍的人権として国連憲章に記載された、「人々が労働組合を組織する権利」を軽んじることを、どれだけ正当化できるというのだろうか。もちろん、権利そのものを剥奪しているわけではないので、ここに「法令違反」はないかもしれない。ただ、そこに浮き彫りになっているのは、一人ひとりの人間に対するシンパシーが完全欠如にしたメンタリティーと、見えない圧倒的な力で、声なき人々を巧みにコントロールする、巨大な経済構造。


2007年11月、ロスアンゼルス地裁は、食品大手企業ドール社と製薬企業ダウ・ケミカル社に、ニカラグアのバナナ農場の労働者に対し、300万ドルの支払いを命じた。1970年代から80年代にかけて、多国籍企業が中米各地に所有するプランテーションに投下した農薬は、そこで働く多くの労働者たちに、視覚障害不妊、癌etc…多大な健康被害をもたらした。先進国内では禁止された、人体に有害な農薬が、規制の緩い、いわゆる「バナナ・リパブリック」諸国に持ち込まれ、大量に使用されたのだ。このように、途上国では、法の整備が未熟だったり、政府自体が多国籍企業と結びいたりして、底辺にいる自国民たちの保護に十分な力を尽くさないことがあり、だからこそ時に、企業側の文字通りの「法令順守」だけでは、人々の権利を本当に守るのに不十分、という事態が発生する。


終日過酷な肉体労働に耐え、満足に食べることも出来ず、子供を学校に行かせることもできず、仕舞いには自身や家族の健康さえ脅かされてしまうという、労働者たちが直面する不条理さを説明するものは、結局、先ほどの経営者の言葉の背景にあるものと同じではないだろうか。



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写真は、地元コミュニティにて。メーデーの日のお祭。