sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

人の手の温もりの話。

sayakot2008-03-09

最寄り駅であるカティプナン駅までは、徒歩15分。
なんてことない距離なのだが、そもそも普段はほとんどのことが徒歩圏で済んでしまうシンプルライフなので、たまに、電車を使うような場所に遠出する機会があると、単に駅まで行くことにさえ、まるでちょっとしたイベントであるかのように気合が入ってしまう。そして大抵、家の前の通りで、トライシクルというリヤカー付きオートバイを拾い、通りに充満する排気ガスを体中に浴びながら、駅まで向かうことになる。お値段は、5分弱の道のりで、12ペソ(約30円)だ。


もっとも、駅まで、と言っても、正確なゴール地点は、その100mほど手前の、
トライシクルのたまり場。だから結局歩くことになるのには変わらないのだが、
このたまり場から駅までの、生臭く狭苦しい小道を、わたしは結構気にいっている。


うす汚れたTシャツを着た子供たちが足の裏を真っ黒にして駆け回っていたり、ヒマそうな大人たちがなんとなく輪になって何かを話していたり、揚げたての魚団子や、カット・マンゴー、スイカを売る小さな露店で、膝まである緑色のスカートの制服を着た女子学生たちが、買い食いを楽しんでいたり、いかにもホワイトカラーらしい青年が、誰かと待ち合わせをしていたり――。
様々な階層の人々が、せわしなく、境界なくいり交っている感じは、いかにも駅前ならではで、ここでは、通りの人々に向けて終日、腕を差し出しているだけの物乞いも、地べたにつっ伏したまま、眠っているのか、倒れているのかさえよく分からない、人の形をした物体も、風景の一つと化すのである。


昨日、朝8時頃この小道を通ったら、この日は、玩具のようなおんボロのエレキギターを肩にかけた中年の男が、何かの曲を無表情に弾いていた。エレキギターの力強いビートのイメージとはかけ離れた、無気力で哀愁漂うパフォーマンスに、足元の粉ミルクの
空き缶は、大きすぎるように見えた。足を止める者は、誰もいなかった。


そして18時過ぎ、再び通りに戻ってきたら、同じ男が、朝と同じ場所で、「演奏」を続けていた。だが今度はその向かいに、うす汚れた物乞いの男が、手だけをなんとか宙に上げて、座りこんでいた。ただでさえ狭い通りを、エレキギター男と物乞いが占拠しているので、通行人たちは体をきゅっとひき締めながら、その間をすり抜けていくしかない。だが所詮これも、いつもと大して変わらない風景だ。


だがその日――。物乞いの男の前を通り過ぎた、まさにその時、わたしの左手の指先を、じっとりと生温かいものが触れ、
次の瞬間、ぎゅっと掴んだ――と、思った。背筋が凍りつき、頭が真っ白になったが、驚いてリアクションをする前に、「それ」は波が引くように自然と、弱々しく放れていった。わたしはそのまま振り返りもせず、何事もなかったかのように、前を歩く友人の背中を追った。動揺を悟られないよう冷静を振舞ったが、頭の中は、数秒前の出来事でいっぱいだった。あれは、たまたま指先が触れただけだったのだろうか、それとも男は確かに私を捉えたのだろうか―? じっとりと重く指先に残った感触が、じんわりと全身を侵食していくような感じは、いつまでも消えなかった。人の手の温もりを、これほどに生々しく、そして悲しく感じたのは初めてだった。


家に帰ってから、真っ先に全てを石鹸で洗い流してしまいたい自分の衝動に、愕然とした。
そしてしばらく何もせず、ぼおっと左手を眺めながら、この胸のむかつきは何だろうと考えた。
それはたぶん、見慣れた街の風景の一部にすぎなかった男が、実は自分と同じ、そして家族や友人と同じ、血の通った人間であるというごく当たり前の事実を、今更に「気付かされた」ことに対するショックと、いかに普段自分が、日々の生活を守るために、自分を無感覚にさせるバリアを周囲に張り巡らせていたかを、不意に思い知らされたことにあるかもしれない。


貧困とか、差別とか、搾取とか、紛争とか、地球温暖化とか、今の世の中には本当に様々な問題が山積していて、専門家たちや政治家たちはそれを経済とか歴史とか心理学とか、いろんな科学で分析したり議論したりするけれど、結局のところ、全ての根源にあるのは、この強烈に生々しい他者の「温もり」に、人々が無視を決め込んでいることにあるのではないかと思う。
平和が、全ての人が、こうした後味の悪い、他者の「温もり」を引き受ける覚悟を持つということであるとしたら、その道のりは決して平坦でないように見えるけれど、個人のレベルで考えたとき、それは完全に、一人ひとりの意思と行動次第でもあり、そのことはむしろ希望を与えてくれるような気がするのは、わたしが楽観的過ぎなのだろうか。



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写真は、3月8日国際女性デーのマーチを眺める少年。