sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

人は見た目でない、と言うけれど。

sayakot2007-11-27

コスタリカに来て、まるまる3ヶ月。
料理好きのホストマザーが腕を振るうままに、米・豆・肉中心の生活を満喫して
いたら、ある日、送った写真を見た日本の友人から、
「ちょっと、(見た目が)コスタリカ風になってきてない?」という、メールの一言が。


一緒にマニラからやってきたアジア人同期の間でも、一人暮らしの自炊組と、
ホームステイ組では、ちょっとした違いが表れている。まあ、当然といえば当然か。コスタリカでは、米をガーリックや玉ねぎをなどを加えて油で炒める。
さらにそこに、たっぷりの豆が加えられる。スナックやサイドディッシュに頻出する調理用バナナは、たっぷりの油で「さっくり」揚げるのが定番だ。


さすがにこのままではちょっとマズい。そんなわけで最近、同じ境遇の友人と共に、地元のエアロビ教室に通い始めた。習い事はほとんど続かないのが常のわたしも、今回は切実度が少々違う。生徒は、女子高生から中年の女性まで、毎回8〜10人のこじんまりとしたクラス。夜8時から1時間。授業料は、1回700コロン(200円弱)。インストラクターのマルガリータは、40代前半くらいで、単髪で颯爽とした、素敵な女性。何かの輝かしい賞状が、壁一面に貼ってある。コスタリカに平和を学びに来て、まさか地元のおばさま達とエアロビに通うことになるとは思わなかったが、これはこれで、単調になりがちな生活にメリハリをつける意味でもちょうどいい。
一体どんな成果が表れてくれることやら。。。


さて。コスタリカの人々は、男女問わず、意外に背が小柄。男性はがっしりと筋肉がついていて、女性はどっしりとお腹やお尻にお肉がついているのが基本的なパターン。日本人との違いはいろいろあるけれど、その一つに「ふくよかさ」に対する寛容さがある。
お化粧ばっちりの華やかな女の子たちのキャミソールから、おなかがぽっこり出ていても、ジーンズから少々お肉がはみでていても、誰も気にする様子がない。すらっと背の高い美少年と、ぽっちゃり肥えた女の子が手をつないで幸せそうにデートしている様子には、素敵ねえ、と思わず友人とため息をついてしまう。ちょっとくらいお腹が出ていて何がワルいの!と開き直れる「自然さ」が、この国にはある、そんな気がする。


日本人女性の、「やせている」という意味での「スタイルのよさ」は、欧米はもちろん、アジア人の友人の間でも時々話題になる。
だがそこには、日本人女性はスタイルが良くて羨ましい、というポジティブな意味と、そんなことに気を遣わなくてはいけないなんて大変ね、という同情のような皮肉と、両方がこめられているように思う。確かに、大きな体を揺らしながら大らかに友達や恋人とケラケラ笑っていられるこの国の人々を見ていると、日本人女性の、ダイエットに対するある種の強迫観念が、外国人にとって少し異様に映るのは、わかる気がする。(そんなことをいって自分を正当化しようとしているわけではないけれど・・・。)


だが同時に、コスタリカが女性に「優しい」国かというと、一概にそうとは言えない。むしろ、女性を容姿によって評価する傾向は、日本が「インダイレクト」であるならば、こちらはもっと「あからさま」。先ほどの議論と矛盾するようだけれど、太っているとかやせているとかがコスタリカであまり重要にならないのは、美しさの定義が単純に違うだけで、彼らは、自分たちの価値基準に関わる「美」に関しては、びっくりするほどストレートで、無邪気で、残酷だったりする。


「他人の容姿に関することはダイレクトに語ってはいけない」という、日本式の暗黙のルールは、ここには存在しない。目が細ければ、本人に面と向かって「中国人みたい」と平気で言うし、肌が黒ければ「インディオみたい」と言いきってしまう。もちろんそれは、きっとこちらがぎょっとするほどのネガティブな意味はないのだろうし、ある意味、とてもさっぱりしたコミュニケーション、と言えなくもない。


この国では、通りを歩けば必ず、「やあ。チニータ(中国人ちゃん、というニュアンス)」とか、「姉ちゃん、かわいいねえ」といった、おじさんや若者たちのかけ声に、必ず遭遇する。それが彼らの、若い女性に対するある意味条件反射なのだろうけれど、よくもまあ、通り過ぎる一人ひとりにそんな注意を払えるものだと、思わず感心する。そして同時に、このようなノー天気なカルチャーが、女性たちを、一方的に「見る」対象にしてしまうのかと思うと、少し複雑な気持ちになる。(実際、自己主張の強い、国連平和大学のアメリカ人の女子学生たちは、「わたしたちは見世物じゃないのよ!」と憤慨していた。)


さて。こういった国民性にどれだけ相関があるかは分からないが、コスタリカは、その離婚率の高さと、シングルマザーの多さが、中米の中でも際立っているとか。実際、この小さなコロンの町でも、彼女たちは身近な存在だ。実は先日も、「わたしは醜いから、彼に捨てられてしまったのです」と、さめざめ自分を責める19歳のシングルマザーに出会ったのだが、そんな彼女に対し、何もかける言葉を見つけることができない周りの大人たちの反応を見ると、「容姿」というものがこんなにダイレクトに取りざたされるカルチャーもいかがなものかと考えてしまう。もっとも、日本の方がよりインダイレクトな分、タチがワルい、と日本人の同期は言うけれど。


ダイレクトが良いかインダイレクトが良いか、その是非は要議論、というところだろうか。もっとも、どんな見かけも個性のひとつ、と誰もが自信を持って自分を肯定できれば、それが素敵だと思う。いずれにせよ、今日もわたしの後ろをちょこちょこと追いかけてくる、6歳のかわいいホストブラザーを見ながら、君は女の子を泣かせるコスタリカ男にはなってくれるなよと、勝手な親(姉?)心を持ってしまうのである。