sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

A Story of a Samurai

sayakot2007-06-24

マニラ旧市街にあるパコ駅前のプラザ・ディラオ(ディラオ広場)。
そこに佇む、一人の侍の銅像


高山右近


戦国の乱世を生き抜き、このマニラの地に没したキリシタン武将だ。


詳細は省略するが、1614年、右近は徳川家康によるキリシタン追放令を受け、家族や他の信徒ら100名余と共に、加賀から長崎、そしてマニラの地へとたどり着いた。信仰を守ることと引き換えに、領地や財産すべて捨てることを選んだ。


当時、イエズス会の宣教師の報告などで既に有名となっていた右近は、到着後、在マニラのスペイン人総督らから熱烈な歓迎を受けたという。
しかし、慣れない船旅や熱帯の気候のため62歳の右近はすぐに病床に伏し、翌年2月4日に息を引き取る。マニラ総督の指示により、葬儀はマニラ全市をあげて盛大に行われたとのこと。



15世紀以降、カトリック教会は、新たな信者獲得のため、強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に、使命感あふれる宣教師を同伴させ、新領地での布教活動を進めさせた。
その結果として、16世紀後半には、マニラはスペインのアジア地域における交易・布教活動の拠点として発展し、また日本にも種子島に流れ着いたポルトガル船の例をはじめ、数多くの貿易船が訪れるようになるのはご存知の通り。
だが、日本のその後の政策は、フィリピンと日本の命運を、確かに分けたのかもしれない。


現在、フィリピン国民の約83%がカトリック教徒だ。
毎週日曜になると、多くの人々が家族と共にミサに行き、祈りを捧げる。司祭は社会で大きな尊敬を得て、その影響力は、政治の世界にも及ぶことがある。ほとんどのジプニーやトライシクルの運転手が、十字架やマリア像などを運転席付近に飾っている。マニラのような都会でも、レイテのような田舎でも、その光景は変わらない。植民地支配が終わった今も、貪欲な旧宗主国は、宗教を通じてこの国の文化を根本から支配することに成功しているのではないだろうか、そんな疑問がふとよぎる。


信仰を守るため、自身と家族の命、さらに武士の「命」ともいえる名誉さえも顧みず、マニラにたどり着いたサムライ。
彼は、日本では得ることの出来なかった安住の地を、この地に見ることができたのか。