sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

A Question on the Value of Education

sayakot2007-06-19

サマール島で、海にプカプカ浮かびながら、地元のワカモノたちと話していたときのこと。


「何歳?」
「20歳」
「じゃあ大学生?」
「ううん。大学は去年卒業して、今は働いているわ」


???


話がなんだかかみ合わないなと思いながら、あまり気にしていなかった。だが今日、たまたま同級生のJと話をしていて、ああそういうことだったのかとようやく合点がいく。


現在40代半ばで、3児の父であるJは、14歳の時にミンダナオにあるとある大学に入学。そして、卒業したのは、彼がなんとまだ18歳のときだという。


どんなにスゴい神童だったのかと、Jの意外な過去に思わず驚くと、フィリピンではあまり珍しいことではないのだと、あっさりした返事。


実は、フィリピンの教育システムは、初等教育6年、中等教育(日本の中学・高校に相当)4年、高等教育(大学)4年の6・4・4制となっている。つまり、単純に計算しても、大学に入学する年齢は16歳、卒業は19歳となる。


そして、16歳で大学入学、というだけで十分「早すぎる」ように思えるのに、この国では、小学校でも、その後の課程でも、Jのケースのように、親が子供を規定の年齢よりも早く入学させる傾向があるという。


どうしてそんなことが可能なのかと思えば、Jが一言。


“Parents can cheat easily (親が簡単にごまかせるんだ)”


Jの場合に実際どのような背景があったかは知らないが、この国の貧しい家庭では特に、子供が、できるだけ早く社会に出て家族を経済的に支えることが求められる。職種によっては、大学入学の証明さえあれば、たとえ実際に卒業していなくても、高卒の学生よりも優先的に雇用されるため、形だけ入学し、その後は中退してブルーカラーの仕事につくこともあるのだとか。彼らにとって教育の意味とは、価値とはなんなのだろうと思わず考えさせられる。


また、大学の入学にせよ、社会に出るにせよ、精神的に未成熟なまま次のステップに進まざるをえなくなった青少年たちが直面するリスクは、容易に想像がつく。かつて神童といわれた少年少女が、周囲の環境に適応できないまま凡人に終わってしまうというのは、よく聞く話だ。


ちなみに、こういったリスクを配慮してか、私の通っているAteneoのようないわゆる有名私学では、かなり厳格な年齢規定を設けているとのこと。だが、一般の公立の学校ではほぼ「放ったらかし」だそうで、それが、企業らによる「大学卒」というディプロマの評価と信頼を下げることにもつながっているのだと言う。
そしてその結果として、フィリピン大のような一流国立大か、Ateneoなど一部の有名私大を卒業すれば自動的に将来が保障される一方、それ以外の大学出身者が、彼らと対等に社会の階段を昇ること(climb the ladder of success)は極めて困難になる。そんな負のサイクルが生み出されているのが、この国の現状。


話は少しそれるが、企業による学歴偏重の傾向は、日本でも毎年、就活時期がやってくると就活生の間で必ず挙がるホットな話題だが、こんなフィリピン社会を見ていると、日本のそれなんてなんともかわいいものだと思えてしまう。
まだまだ例外はあるだろうが、「学歴」はあくまで個人の過去の経験やアイデンティティの一部分として、かつてより相対化されてきているし、例えばわたしの前職場のように、最後にモノを言うのはその人物がどれだけ熱い「想い」を持っているかどうかなのだと、心から信じることが許され、共感を得ることができるからである。


いつかはフィリピンにも、そんな日が訪れるのだろうか。


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写真は、サマール島ナガ・ビーチで出会った少年たち