sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

〜To Live in Leyte & Samar〜

sayakot2007-06-14

この島の人々は、明るく、優しい。


食事のメニューに戸惑っていれば、「何が食べたいの?」「この店のおススメはね・・・」と、隣のテーブルの客たちが集まってくる。
町を歩けば、行きゆく子供達がはにかみながら手を振ってくる。
今夜の宿がまだ決まっていない、バスの隣席のおばさんに打ち明ければ、たちまち車掌さんと周囲の乗客たちの間で会議が催され、彼らおススメの宿の前でバスを停め、降ろしてくれる。
ちょっとビーチに行ってくる、宿のおじさんに言えば、ガイド役を申し出るばかりか、他にどこか行きたいところはないのかと腕をまくってルート作りを手伝ってくれる。
宿から離れたバス停に、朝4時半に行かなければならなかった最終日も、当たり前のようにバンを出してくれ、「この子たちを●●で降ろしてやってくれ」と運転手さんに伝えてくれた。


もちろん、私たちが日本人だと分かっていた上で。


レイテに着いた初日、タクロバンの観光ガイドのDonに言われたこと。


「歴史家や、君たちの歴史の教科書が、フィリピン人の反日感情について何て言っているかは知らないけれど、私の知る限り、レイテの人間で今も日本人を悪く思っている人間なんていないよ。もちろん、他の島の人間がどう考えているかは知らないけれどね。この島の人間は、兵士同士が傷つけ合うのが戦争というものだと皆分かっているから」


そして彼は続けた。


「レイテとサマールにある、学校や橋やダム、水や電気、そういったインフラは、全部日本が助けてくれたんだよ。フィリピン政府だってアメリカだって、私たちにはほとんど何もしてくれなかったのに」


第二次世界大戦中、住民を巻き込んだもっとも熾烈な戦闘の行われたこの島で、こんな言葉に出会うとは、まったく想像していなかった。だが、滞在中、島の生活により目を向ければ向けるほど、彼が私たちを気遣うために表面的なウソをつこうとしていたのではないことが、なんとなく分かってきた。


島中を無造作に覆っているかのように見えるココナッツの木には、実はその1本1本に、梯子のような切りこみが、高くてっぺんまで入れられている。
節もつくらず、20m近く容赦なく伸びるこの木に、人々は登り、1つ1つ実を収穫する。収入は、1つ収穫するに付き○ペソ、割って実をかき出すのに更に○ペソ、そんな計算で決まるのだそうだ。雀の涙のような額でも、彼らにとっては貴重な現金収入(cash crop)の機会だ。


「マニラの人間は、アメリカを”liberator(解放者)”と思っているかもしれない。たしかにアメリカ人は、私たちにチョコレートをくれたかもしれない。だが決して、その作り方を教えてくれようとはしなかった。彼らは結局、私たちを資本主義の枠組みに、組み込んだだけなんだ」


深い憤りがこめられた、彼のたどたどしい英語さえ、その「アメリカ流」の恩恵の結果なのだと思うと、その皮肉さに胸がつまる。


ビーチで出会った現地の若者たち。学校を途中で中退した者が多いことにすぐに気づく。家族を支えるために、しばらくはマニラか海外で働かなきゃ、またいつか学校に戻れたらいいけれど・・・。皆、そう言って肩をすくめる。


雨の多いレイテ島・サマール島では、一度の洪水や土砂崩れなどで、過去10年間にも何千人もの犠牲者がている。苛酷な環境下で、彼らは日々の生活に誠実に向き合い、苦楽を分かち合い、助け合い、生き抜く方法を自然と身につけたのだろう。作物が実ればそれを心から喜び、新たな命が生まれればそれを祝福し、誰かが亡くなれば、心から涙する。
悲惨な戦争の歴史も、もしかすると彼らにとっては、過去に経験してきた数々の悲劇の、一つなのかもしれない。そんな気すらしてくる。


かつて大国の戦争に翻弄され、今なお開発から取り残されたこの土地は、愛情深い心を持った人々の住む、自然の美しい島だった。