sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

English in the Philippines ver.2

sayakot2007-05-23

7107の島により構成されるフィリピンには、100以上の民族グループが存在し、87の独自の言語があるそうだ。


これらの言語は、たとえば関西弁や博多弁といった「方言」というレベルの違いにとどまらず、完全に異なる言語であることが多いとのこと。
ミンダナオ島出身のクラスメート、Jによれば、5Km先のコミュニティで話されている言葉が分からない、なんてことはザラにあるのだそう。


こんな事情で、首都マニラを中心に発達したタガログ語、そして何より英語が共通語として、重要な役割を果たしている。
というようなことを、何度かこちらでも紹介したのだが、イマイチぴんと来ない方が多いようだ。


「どうしてフィリピンで英語を勉強しているんだっけ?」
「フィリピン人ってそんなに英語が話せるの?」


日本では、どうしてもフィリピン=「タガログ語」というイメージが強い。英語コンプレックスに悩む私たち日本人にとって、ストリートチルドレンやホームレスが溢れる第三世界のこの国で、人々が英語をコミュニケーションツールとしている光景は、どうしても想像しがたいものなのかもしれない。


実際のところ、タガログ語は「口語」での使用が中心であり、書面での表記やフォーマルなシーンにはあまり向かないのだという。例えば、この国では小算数や数学は最初から英語で教えられるのだと言う。数学で用いられる用語を的確に表現できるタガログ語が存在しないためだ。


また、街の標識や看板、公式文書や書籍などでも、使われているのはほぼ独占的に英語だ。
例えば、ラジオやTVでは、英語とタガログ語の番組が半々だが、新聞の場合、タブロイドを除くと、英語で書かれたものがほとんどとなる。この国の雑踏を歩いていると、その英語の露出の多さに、時折、自分がいったいどこの国にいるのか分からない、そんな感覚に襲われることがある。


さらに、タガログ語を中心に交わされる日常会話においてさえも、英語の存在感は見過ごせない。
タクシーの運転手やおばあさん、子供の会話の中にさえ、「Tagalog」+「English」=「Tanglish」という形で、英語の単語や文章が、雑多に混ざっており、その日常生活・文化への浸透度合いには驚かされる。


一方で、美しく正しい英語を流暢に操るには、それなりの教育を受けている必要がある。私が今所属しているAteneoの学生や教授陣が、”Ateneo English”なる格調高い英語を誇るように、アクセントや語彙など、英語の実力そのものが社会的ステータスを反映することがある。
わたしのフィリピン人の友人達は、地方や貧しい地域を訪れる際は、できる限りタガログ語を意識して使うようにしているという。恵まれた彼らの英語力が、時に人々の"反感"を招くことがあるからだ。


この国において、英語はただのコミュニケーションツールではなく、既に文化的アイデンティティーの一部なのである。それゆえに、この国の底辺の人々で暮らす人々、つまり義務教育であるはずの初等教育すら満足に受けることができなかった人々は、物質的に何かがただ欠如しているのではない。彼らは、英語という、社会インフラへのアクセスを可能にする最低限の武器を身につける機会と、自分達自身の所属する文化に参加する機会さえも奪われ、周辺に追いやられた人々なのかもしれない。

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写真は、Ateneo de Manila Universityの象徴"Ateneo Eagle"