sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

The Color

sayakot2007-05-06

"You're like Caucasian.
Haven't you noticed that people on the street are looking at you as if you're a Caucasian?"
(君は白人みたいだ。街を歩いていて、皆が君を白人を見るみたいにみていることに気づかないのかい)


フィリピン人のMに、そう言われてちょっとしたショックを受けた。
私はどっから見ても、黄色人種。小学生や中学生の頃、映画や雑誌の表紙を飾る白人の俳優やモデルに憧れた時期もあったが、それも今となっては遠い昔。黄色の肌は私の誇りであり、紛れもないアイデンティティの一部だ。


フィリピンの男性陣に好みのタイプの女性を聞くと大体こんな答えが返ってくる。
「優しい子」「面白い子」「笑顔がかわいい子」
そして・・・
「A girl with "fair" skin」


日本人にはもしかすると馴染みのない、"fair skin"という言葉。辞書を引くと、"fair"には、「公正な」「有望な」「順調な」という意味に加え、「色白の」「ブロンドの」という意味がある。そして"fair"の反対にくる語として、"dark"が挙げられている。


フィリピン社会には、同じフィリピン人でも、肌の色の薄い者、褐色で"dark"な肌を持つ者、様々な人々がいる。かつて白人VSフィリピン人という対立構造が存在したことは紛れもない歴史的な事実であるが、同じフィリピン人同士で、肌の色に基づく構造的なヒエラルキーが存在したことがあるのだろうか。(03年に訪れたインドで、北部に住む肌の色の薄い人々が、南部の褐色の肌を持つ人々をあからさまに見下す経済的・精神的優劣関係を目の当たりにしたことをふと思い出した)。


もちろん、日本にも、白い肌を是とする価値観が歴史的に存在してきたことは言うまでもない。街でも雑誌でもTVでも、「美白」の文字はいたるところで躍っている。しかし、フィリピン社会のそれを見ていると、白い肌が、社会的なpowerによりリアルに連結しているような気がしてならないのだ。不当な差別と支配の苦しみを歴史的に経験しているこの国の人々が、何故。より "fair"な肌の色に対する、彼らのオブセッションに、違和感を覚える。


平均的なフィリピン人の肌よりも更に、褐色の肌を持つM。
寮を出る最後の夜だからと、彼は昨晩、近くのファンシーなレストランに私達何人かを招待してくれた。和食と洋食の融合をテーマにしたお洒落メニューに見入っていたところ、店のマネジャーがMのところにやってきて、何かお詫びをしている。


実は昼間、Mが予約のために店内に入ったところ、すぐさまウェイターに「ここはお前の来るところではない」と追い払われたそうだ。肌の色が全ての要因ではないかもしれない。いつも通りのMのスタイル――Tシャツにサンダル、長く伸びた髪は、客の小銭を目当てに店に入りこむスラムの住民と、区別をつけるのは難しいかもしれない。それにしても、だ。